「百名山」は山のスタンプラリーにあらず
「日本百名山」という単語はみなさん一度は聞いたことがありますよね?
これは作家・深田久弥が執筆した『日本百名山』で紹介された、北海道・利尻山から屋久島・宮之浦岳までの100の山を指しています。
ところが……!
「『日本百名山』を読破したことがありますか?」(YAMA HACK編集部実施アンケート)の質問に対し、「はい」と回答したのは1285名中わずか269名でした。
なんと約8割の読者が『日本百名山』を読了していないという驚くべき結果が判明しました。そもそも「本のタイトル」として認識されているか、山のスタンプラリー的なものと思われていないか、実に怪しい。
今回は『日本百名山』を読んだことがない、あるいは手に取ったものの途中で本棚にしまったままというひとに、この本の楽しみ方をお伝えします。
「小難しそう」「持っているけど挫折した」。その理由を考えました
この記事を読んでいる人のなかには「日本百名山をめざしているから読んでみよう!」と書店でちらりとページをめくったものの、「何やら難しそう……」と書棚に戻してしまった経験がある人も多いのではないでしょうか。そうした印象がどこから生まれるのかを、2つの視点から考えてみました。
時代は大正〜昭和。もはや古典文学といえる、難解な言葉づかい
『日本百名山』の著者である深田久弥(1903年〜1971年)は探検家やクライマーでなく、小説家・随筆家を生業とした登山愛好家でした。
石川県で生まれ、東京帝国大学(現在の東京大学)を中退後、作家活動を始めます。文芸誌『文學界』の編集委員も担当し、その中には日本人初のノーベル文学賞受賞者・川端康成もいました。
残念ながら小説家としては著名な作品はありませんが、日本山岳会の副会長まで務めたほどの登山愛好家。昭和34年〜38年に山岳雑誌『山と高原』で掲載された連載が、昭和39年に『日本百名山』として刊行されたのです。
時代は「令和」。作者がこれらの山に登ったのは大正〜昭和中期であり、登山道や山小屋も整備されていない時代でした。文章もふりがながないと読めない漢字が多く登場することが「読みにくさ」のひとつの原因ではないでしょうか。
ドキドキハラハラが起こらない!静かな「随筆」という文章
『日本百名山』は、小説ではなく随筆という執筆スタイルをとっています。
多くの山が古代〜近代にその山をモチーフにした詩歌や歴史の紹介から始まり、作者である深田久弥の大正〜昭和中期の登山の思い出が“淡々と”綴られています。
槍ヶ岳を舞台とした『ミッドナイトイーグル』(高嶋哲夫・著)のハラハラドキドキ感、谷川岳を舞台とした『クライマーズ・ハイ』(横山秀夫・著)の心揺さぶる感動、火打山などを舞台とした『山女日記』(湊かなえ・著)の同世代女性からの共感……といったものは皆無。ただただ描写が静かに続きます……。
いまのエンターテイメント小説やミステリーに慣れた読者には、少し退屈に感じるかも知れませんね。
深田久弥に共感?!登山者目線で『日本百名山』を読んでみる
こうした背景もあり、いまの文体やエンターテイメント小説に比べると、少し読みにくい『日本百名山』。ですが、みなさんの「登山体験」と重ね合わせて読むと、ひと味違う面白さがあるのを知っていますか?
展望なしの残念な山頂……。そんなとき何を楽しむ?
例えば、日本百名山に選定されている山で、北海道の山は9座。
しかし、深田久弥は7座で「山頂は霧の中だった」と懐述しています。あなたが絶景を楽しんだあの山で、果たして深田久弥は展望を楽しめたのか……?という視点で、ページをめくってみるのも興味深いのではないでしょうか。
ルートがやばすぎ。昔の登山の大変さ、試してみる?
深田久弥がこれらの山に登ったのは大正時代~昭和時代前期。交通機関も発達しておらず、登山道もあまり整備されていない山々に登るのは、容易なことではありませんでした。
作中にたびたび現れる「藪こぎ」「野営」の表現。登山道も整備されておらず、ロープウェイなどの交通機関もない。そんな山小屋が少なかった時代の登山をいまするとしたら……。現代のルートを照らし合わせることで、登山インフラの発達を実感することができますよ。
代表的なのが、奥秩父の金峰山。現在は青色で示した東側の大弛峠・西側の富士見平(みずがき山荘から入山)の登山道が一般的で日帰りも可能です。
ところが深田久弥が辿ったのは、赤色で示した南側の昇仙峡から北側の川上村へ抜ける2泊3日のロングコース。1泊目は上黒平集落の宿に泊まり、2日目の昼過ぎに山頂に到達。そこから大弛峠をめざすもハイマツが多くて断念、今度は川上村の川端下(かわはげ)集落をめざしたものの、途中で日が暮れてしまい「野しゃがみ」と表現された野宿をして、翌日ようやく梓山という別の集落に下山しました。
登山道や道標も整備されておらず、GPSもなかった時代。山によっては明瞭な登山ルートが記載されていないものもありますが、あなたが登った「日本百名山」のルートと地図の上で比較してみるのも面白いかもしれませんよ。
百名山に入れなかった残念名山。その理由は……
日本百名山は、あくまでも深田久弥という個人が選定した百の山々。彼が選んだ条件には下記の項目が挙げられています。
【1】山の品格:ただ高いだけでなく人の心を打つ山
【2】山の歴史:古来から人と関わりの深い山
【3】山の個性:他にはない独自の要素を備えた山
(付加的要素として、標高1,500m以上の山)
それでは、候補に上がったものの惜しくも日本百名山に選定されなかった山々をいくつか紹介します。
ニペソツ山(北海道)
深田久弥は「掲載された北海道の9座の他に、あと7座の候補があった」と、あとがきで述べています。ただし執筆時点で彼はこれらの山々に登頂していませんでした。
「(未登頂という)不公平な理由で選ばず申し訳ない」という主旨のコメント付きで挙げられた山のうち、登り応え・気品・標高など抜きんでているのがニペソツ山。『日本百名山』刊行後に登頂し、「実に素晴らしい山だった」とのちに称賛しています。
黒姫山(長野県)
深田久弥が選定にいちばん迷ったのが、上信越の山々。標高は似たり寄ったりですが、作者の好きな「個性」のある山々が、あとがきだけで10座も挙げられています。
長野盆地から眺める「北信五岳」のうち『日本百名山』には妙高山のみが選ばれていますが、黒姫山も捨てがたい存在だったのではないでしょうか。
能郷白山(岐阜県・福井県)
福井県に位置する山で『日本百名山』に選定されたのは荒島岳。しかし、最後までその座を争ったのが能郷白山です。深田久弥はお隣の石川県出身で、福井県の旧制中学に通っていました。彼の「ふるさとの山」としてお気に入りだった白山に連なる山並のうち、山の気品・歴史でわずかに勝った荒島岳が選ばれましたが、能郷白山もそれに劣らぬ魅力いっぱいの山です。
さあ、あなたも『日本百名山』のページをめくってみましょう!
いかがでしたか?
「名前は知っているけど、小難しそうで取っつきにくい存在」だった、『日本百名山』。でも深田久弥=一登山者と捉えてみると、「その感じ、わかる!」や「同じ山でも見えかたが変わった!」といった、登山者同士の「あるある」が見つかるかもしれません。せっかく日本百名山に挑戦するなら、ぜひ読んでみてくださいね。