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保存版「福岡大ワンゲル部ヒグマ襲撃事件報告書」(2ページ目)

※ヒグマに襲われ亡くなった3名はA氏、B氏、C氏、生存メンバー及び関係者の名前は全て仮名で記載しております。
※一部資料にて黒塗りの箇所があったため、その箇所については●●●と記しています。


はじめに

夏季合宿日高山脈縦走パーティーは昭和45726日夕方から727日にかけて熊に襲われ遭難したA氏、B氏、C氏の三君を亡くした。

この事件の発生から遺体の収容までの経過を記し事故原因を探究し、ここに報告書を作成する。

この尊い犠牲に報いる為にも、これをもって我々の心に銘記し、クラブ再建の為に努力を怠たってはならない。

地図
地図

夏期合宿行動概略

7月 
12日日高山脈パーティー5名博多発
13日車中
14日新得署御影派出所、清水町営林署に登山計画書、食料表、装備表を提出し、入山許可を得る。
 芽室岳登山口より縦走に入り、20分歩いた沢の近くにテント設営。快晴。
15日サイト地→芽室岳→マボロシ沼。
 少しガス、くもり。
16日マボロシ沼→1604M峰→1604M峰を下った鞍部。晴。
17日鞍部→1734M峰→1784M峰を下った鞍部。
18日雨、ガスのため沈殿。
19日鞍部→ルベシベ分岐→ルベシベ分岐から下った鞍部。
20日鞍部→1699M峰→1700M峰との中間ピーク。晴。
21日中間ピーク→1700M峰→ピパイロ分岐直下400Mの雪渓。快晴。
22日雪渓→ピパイロ分岐→ピパイロ岳→1604M峰→1604M峰を30分下った稜線上。ガス。風強し。雨のち晴。
23日稜線上→北戸蔦別岳→戸蔦別岳→七ッ沼カール→日高幌尻岳→七ッ沼カール。快晴。
24日七ッ沼カール→二股→エサオマンの北カールに続く沢の途中。快晴。
25日沢→エサオマントッタベツ岳→札内岳分岐→春別岳→1852M峰→1900M峰の直下、120~130Mの九ノ沢カール。快晴。
26日九ノ沢カール→稜線→1900M峰の次のピーク。
 19:00 B氏、C氏、行方不明。快晴。
27日8:15 A氏、行方不明。ガス濃く、くもり。

 尚、熊に出合ったのは7月25日、夕方より。この行動記録は、佐藤、高橋、及び遺品であるC氏の手記より作成した物である。

福岡大学ワンダーフォーゲル同好会

日高山脈パート行動記録

佐藤

7月12日
AM 9:00つくし1号にて博多発
7月14日
AM 10:40新得駅着
PM 12:30新得駅よりバスにて御影
 御影にて新得署御影派出所に登山計画書をA氏提出
PM 1:30タクシーにて御影発(千円以内)
PM 2:00清水町営林署芽室岳登山口着(営林署と登山口は同一地)清水町営林署にて登山計画書、食糧表、装備表提出(全員で)入山許可を得る
PM 3:00登山口より20分位歩いた地点に?テント設営
7月15日
AM 3:00起床(少しガスる)
AM 10:00芽室岳頂上立つ(頂上付近にテント3張のサイト地有り。頂上までは普通の道
PM 2:30マボロシ沼着(沼が2つ有り、雪渓有り)
 設計の上にテント設営
7月16日
AM 3:00起床(快晴)
AM 11:001642M峰着
PM 1:00パンケヌシ乗越通過
PM 2:301604峰を越えた鞍部着、
 テント設営
7月17日
AM 3:00起床(ガス濃し)
 この日は1日中ガス濃し、そのためルート探しに時間を費やす
AM 10:001734M峰の頂上に立つ(1734M峰へは直登で道はついている)
 この峰に九州岳と命名
PM 0:30雨が止みそうもない、ガスが濃いため行動中止する。小鞍部にて設営
7月18日
AM 3:00起床(ガス濃し、雨強し)
 8:30まで様子をみるが雨、ガス共に強い為今日は沈殿と決定。(雪渓をとかすが泥水と変わりない)
7月19日
AM 3:00起床
AM 10:30ルベシベ分岐着(分岐にはお花畑有り、サイト地有り、2張位)
PM 1:00サイト地着、テント設営
7月20日
AM 3:00起床(ガス)
AM 11:001699M峰着
PM 2:301700M峰との中間ピーク着
PM 3:00中間ピーク下の岩場着、今日はここでビバーク(グランドシートの下にハイマツを切り敷いてテントを張る。下方にずり落ちて仕方ない)
7月21日
AM 5:00起床(快晴)昨日の疲労から見て5:00起床にした
AM 10:001700M峰着(1700M峰から下り1時間位はハイマツではなくバツグンの道)
 昨日の疲労により全員バテ気味
PM 0:30ピパイロ分岐直下400Mの大雪渓に至る
 明日のことを考え今日はここまでと決定
 15日以来綺麗な水にありつく
7月22日
AM 3:00起床
AM 9:00ピパイロ分岐着
AM 10:00ピパイロ岳着
 ピパイロ分岐より進行中(幌尻岳の方へ)帯広畜産大学の6人パーティと会う
 (ピパイロ分岐よりカムエクまではバツグンの道と聞く)
PM 2:001604M峰より30分位進行した尾根着、テント設営と決定、尚1604M峰に鳥岳と命名
7月23日
AM 3:00起床
AM 8:001916M峰着
AM 10:00北戸蔦別着
AM 11:30戸蔦別着
PM 0:30七ッ沼カール着
 七ッ沼カールにて鳥取大学、帯広畜産大学、中央鉄道学園大学と会う。七ッ沼カールにて今期合宿は食料と日数を考えてカムウエクチカウシ岳で打ち切ろうとA氏と話し合う。
PM 1:50日高幌尻着(幌尻岳へはピストン)
PM 3:00七ッ沼カール着
 幌尻岳頂上にてペテガリチでのルート状況を一般の人に説明してもらう。
 それにより七ッ沼カールより沢を下って二股に出、エサオマントツタベツ岳の北カールに向かうことに決定
7月24日
AM 3:00起床
AM 11:00二股着
 沢を下る途中帯広畜産大学と会い二股で又出合う
PM 2:00エサオマントツタベツの北カールに続く沢の途中でテント設営

事故経過報告

7月25日
AM 3:00起床
AM 9:40エサオマントツタベツ岳着、測候所は主稜尾根上ではなくエサオマンの派生尾根上(60分)の所にある。
 頂上で帯広畜産大と会う
PM 1:10春別岳着
PM 3:201900M峰の直下150Mの九ノ沢カール着、テント設営
PM 4:30夕食後全員テントの中に居た時、A君が熊を発見(テントより6,7Mの所)
 最初は興味本位に観察、この時テントから25m附近をうろうろ、そして段々、近づいてくる。(この時はまだキスリングをテントの外に置いていた)
 30分位してキスリングを漁りだした。食料を食べているのが見える。熊の様子を伺いスキを見てキスリングを全部テントに入れる、その後火を焚き、ラジオの音量を上げ食器を鳴らす、そうしているうち30分位して熊の姿が消える
PM 8:00探したが見当たらず
PM 9:00熊の鼻息がし、テントに1回だけ触れ、こぶし大の穴があく。この夜は2人ずつ見張りをし、2時間交替で寝る
7月26日
AM 3:00起床(快晴)
AM 4:30パッキングも終りに近づいた時、再びテントの上方に熊が現れる
 15分位はテントの外に出て熊を見ていた。昨夜同様、段々と近づいて来た。テントに入って様子を伺っていたがテントの傍まで接近しテントに手をかけ侵入しようとした。我々はテントが倒されない様にポールをしっかり握りテントの幕をつかんでいた。
 5分位熊と我々はテントの幕を引っ張り合っていた。これ以上はだめだと判った時、A君が入り口の反対の方の幕を上げ一斉に1900M峰の次のピークに向かつて45~50M程逃げる、振り返ると熊はテントを倒し、その中にあるキスリングをあさつていた。それからすぐ僕とC君はA君の命令で「9の沢を下り、札内ヒュッテか営林署に連絡し、詳細を話しハンターの要請を頼む」と言われたのですぐに僕はC君を連れて9の沢を下る(AM 5:00)
AM 7:158の沢の出合いで北海道学園大学10人位と会う。彼等の話しによると「我々も熊に襲われたので、直ちに下山する」との事だったので、僕は彼等に我々の事情を話したら(僕は大学名、パーティーの人名、年齢を紙に書いて渡す)了解してくれ、ハンターの方も引き受けてくれるというので、安心し彼等の情に甘えて食糧2日分、地図、コンロ、ガソリンを借りた
AM 7:458の沢出合いより今度は9の沢を登らず8の沢を登つた(これは時間の短縮と安全性を考えて)
PM 0:30カウイエクウチカウシ岳近くの稜線に出る
PM 1:00稜線に上たA君等三人と合流、テント、キスリングは稜線に上げていたのでパッキング、休憩等で1時間費す、僕とC君が稜線に出て3人と合流する間稜線上で鳥取大、中央鉄道学園と会う
PM 3:00カムイエク1900M峰との中間ピークにてテント設営と決定、夕食作りと並行してテントの修繕をする。
PM 4:30夕食をすませ、テントを設営し寝る準備をしていたところ入口と反対の方向に熊現わる(3度目)一斉にカムイエクの方へ縦走路を50M位下る。
 そこで1時間半くらい様子を見る。
 二回A君がテントのすぐ傍まで行き熊の様子を伺う、二回目様子を見に行く前、B君とC君に8の沢カールにテントを張っている鳥取大のところにいき今晩の宿泊をお願いする様相談しに行くように命じた。A君が二回目熊の様子を見に行って帰った時、「まだ居るので、もう鳥取大のテントへ行こう」と言い残る三人で、鳥取大のテントへ向う。途中帰ってくるB君とC君に会い鳥取大のテントは確認したとの事で、5人合流して鳥取大のテントに向う、カールに下るにはカムイエクの頂上を登って行かなければならないけれども時間がないし、全員疲れているのでA君は頂上手前の稜線からカールに下ると決定、僕も了解した。そこはハイマツも少なく、草が生えており、危険なところではなかった。
PM 6:30稜線から60~70m下ったところで高橋君が後を振り向き熊を発見、僕の後10m前後にあった。(下るときは最初にA君最後に僕が歩いていた。)
 熊を発見して全員一斉に下る、僕は少し下ってすぐ横にそれ、ハイマツの中に身を隠した、熊は僕のすぐ横を通り下へ向かった。そして25m位したのハイマツの中で「ギャー」という声がし格闘している様子であった。
PM 6:30
~7:00
途端にC君がハイマツの中から出て「チクショウ」と叫び熊から追われるようにカールの方へ下っていった、それからすぐ、A君が僕のところへ来ると同時に、全員集合の声をかけた、すると高橋君が僕等のところへB君にコールすると約30mしたと思われる地点から応答があったが、とうとう来なかった、そして三人で鳥取大のテントへ向つて助けを求めた、すると鳥取大は20分位して、二ヶ所に火を焚き、ホイッスルを吹いてくれた、その後鳥取大は沢を下った。三人集まって居た時、A君は、「C君は足を引きずりながら鳥取大のテントへ向かったのを見た」と言った。
PM 8:00それから我々三人(佐藤、A、高橋)は一応安全な場所と思われる岩場へ登り身を隠した。26日の夜はこの岩場で過ごす
7月27日
AM 7:30ガス濃し、視界5m
 一応8時より行動開始と決定、まずC君の所在を確認することに決定
AM 8:00岩場よりA、佐藤、高橋三君の順で下る。ガス濃くなり視界がきかないためゆっくり注意して下る。15分程下った時、下方2~3mの所に熊現れる。一瞬身を伏せ、様子を見るが、突然熊が「ガウァ」と叫ぶ声と共に、A君が立上り、熊を押しのけてカールの方へ熊に追われながらA君が逃げて行くのを確認。すぐ高橋君と二人で山の斜面をトラバースしカールを右手に見ながら8の沢に出て沢を下る
PM 1:005の沢、砂防ダム工事現場へ到着
 一応事情を説明し車を待つ
PM 6:00中札内駐在所へ到着
 工事現場から駐在所へ向う途中 鳥取大生2名と会い、彼等の話によると事情は話しヘリコプターが救援に向かったとの事であった

救助活動及び遺体収容

7月27日
<佐藤、高橋> 濃霧。
Aが襲われた直後、八の沢を下る。

10:30八の沢出合
13:00五の沢小田建設工事現場で、事情を話す。ここで、鳥取大パーティの二名は、中札内派出所に向つたということを聞く。派出所に行きたい旨を告げると、車で送ってくれるとのことだった。
16:00五の沢を出発し、途中鳥大生二名と会い話を聞くと、「ヘリコプターで捜索に向つてくれた。」とのことだつた。
17:30派出所に着く。大学、家族には連絡がついているとのことであった。
 ここで調書を取られる。
23:30中札内の旅館に泊る。

<福岡本部> 晴。

9:05釧路方面本部外勤課、伊藤氏よりの第一報を学生課受信。
9:15残留部員連絡先に、連絡をとるも、不在でOB連絡先、松本氏に連絡し、Aパート
17:30本部学生課に対策本部を設置、OB現役残留部員に連絡をとる。
21:30田中学生部長、渡辺部長、現役山本、板付を出発。
23:50九州学生ワンダーフォーゲル連盟役員中村君(西南大学WV)来訪。

<帯 広> 晴。
鳥取大学、中央鉄道学園、帯広畜産大学、各パーティが福大パーティの遭難を確認。

15:30ヘリコプターが飛んだが、乱気流の為、現場を確認出来ず、とりやめる。

中札内から山岳関係者6名、ハンター4名が出発する予定であったが、当の熊は手負のものらしく、極めて危険であると思われるので、10名のみで出発は不可、出発に要する人手が、集まるまで、活動停止。(入山届未提出ということで、交渉に時間を食う。あとで調査すると、入山届を、警察署と営林署に提出していた。)

7月28日
<福岡本部> 晴。

9:00九州WV連盟役員小林君(熊本大学)博多着。協議の結果、九州WV連盟中村君(西南大学)が現地へ向う。
10:30中村君板付発。
10:50C家御両親、A家母、弟さんの4名板付発。

<帯広> 晴。

9:30田中学生部長、渡辺部長、現役山本、帯広に到着。
12:40対策会議(十勝遭難対策協会、農林関係者、山岳関係者)終了。

決定事項
ハンター7名、山岳関係者16〜7名、14:00に集合して入山する。本日の行動は札内ヒュッテ近くの治山事務所付近にダムがあるが、このダムの近くにBCを設置して現地に熊が好む食料を置き、熊をおびき出す。治山事務所と現場とは、トランシーバーによる連絡をとる。

16:15第一次隊帯広署出発。札内ヒュッテへ向かう。(帯広警察官加藤氏他2名、山岳会長、山口氏他5名、ハンター野際氏他8名、鳥取大学清水他3名、中央鉄道学園佐々木他1名、本学WV4年山本)
17:00熊大WV帯広署へ支援。
22:30九州学生WV連盟役員、中村(西南大WV部員)帯広署着。
 宿泊所は、能楽会館で、田中学生部長、渡辺ワンゲル部長、A家2名、C家2名。

<現地> ガス。
八の沢付近は、ガスがかかり、天候、特に気流が悪いので、ヘリは飛べない。
7月29日
<福岡本部> 晴。

21:30OB松本、現役太田、木村、山崎板付発で現地に向う。

<帯広> 晴。

9:00二次隊五の沢BCへ出発。(山岳会青山氏4名、山岳連盟通信部阿部氏他2名、熊大WV石川君他3名、室工大山下君他1名。)
12:30九産大WV3名、リヤカー旅行を中断し、支援に来てくれる。
14:00福大WV曽根、村上到着。
 16:00 三次隊出発の予定だったが、山へ検死に行く医者が、いなくて医者を探し出発遅れる。
20:00実兄B氏到着。
21:00三次隊出発。(ハンター遠藤氏3名、検死官青木氏他1名。福大WV曽根、村上、九州WV連盟中村君。)

<BC> くもり。

6:00一次隊BC出発。
10:30二次隊BC到着。

<現地> ガス。

13:15カール到着。サイト地にテント張りつつ捜索する。
14:00サイト地上方100米付近で血まみれの2つのユニフォーム発見。山本、福大のユニフォームであると確認。所持品により、A、Cのユニフォームと確認。
14:45ガスが晴れる。下方サイト地より望遠鏡で見ていた捜索隊が、遺体らしきものを発見と、上方の捜索隊に連絡。
14:50遺体発見①の遺体。
 つづいて、①の遺体、右下100米地点で②の遺体発見。
15:00確認すれども、誰れであるか判別出来ない。しかし、A、Cであることは間違いない。
15:30まず、下方にあった遺体を、シュラフに納め(後にCと判明。)捜索隊のテント横に安置。
16:00遺留品を集める。
16:30カール下方より熊現れる。ハンターによって射殺。
17:00残りの遺体をシュラフに納め、先の遺体と並べ、安置する。ローソクと煙草と飯を盛り第一次隊全員で冥福を祈る。
18:00熊の襲来に備えて、ハンター2名(2時間交代)、警察官2名、福大WV山本で遺体を見守る。

※Aの遺体発見
場所:枯沢のガレ場の大きな岩の下。
状況:衣服は全く身につけていない。頭を下に向け、うつ伏せの状態で足を広げ両手を強く握りしめていた。顔面の右半分は全く損傷、ケイ動脈を切られ、血液の流出のためか死体は白かった。胸部、背、腹部に熊の爪痕が無数にあった。

※Cの遺体状況
場所:Aの遺体発見場所より右下方100米位のガレ場。
状況:衣服は全く身につけていなく、頭を北側に向け、うつ伏せの状態で顔面はAよりも、痛みが激しく、顔からの確認は不可能の状態であった。全身にかなり無数の熊の爪痕があり、腹部はえぐられ、内臓が露出し、やはりケイ動脈を切られていた。

7月30日
<帯広> くもり。

10:15OB松本、山崎、太田、木村隊広着。
 福岡大学体育会、藤田氏、内田氏隊広着。
11:45四次隊出発(OB松本、福大WV太田、木村、山崎、●●●)、荼毘の資材運搬、灯油180ℓ。他に遺族5名、西南女1名がBCへ出発。
18:00五次隊出発(清水山岳会小野氏他5名、福大WV高橋、●●●、小樽商大松田君他3名、ハンター金子氏他2名。)現地より荼毘の資材追加(オノ20個、ナタ10個)

<BC> くもり。

6:25二次隊、三次隊合流してB.C出発。
13:30四次隊、BC到着。
20:00鳥取大WV、中央鉄道学園大、ハンター9名、BCに戻る。(14:00)到着。
23:00五次隊BC到着。

<現地> ガス。

6:00捜索開始。視界は10米程で、天候の回復を待ち、回復次第、カムイエクウチカウシ福大サイト地まで行く。結局天候回復せず行けず。
9:00一度捜索準備をするが、天候はますます悪化のきざしである。天候の回復次第、直ちに出発できる状態を保つ。コールをかけるが何の返答もなし。
12:00中央鉄道学園大、鳥取大WVの荒らされたサイト地を片付けるのと並行して付近を捜索。
12:50サイト地(上記の)を片付けているとき、ローマ字でBのネームが入った帽子を発見。Bのものであると本学WV山本確認。ただちに鳥大サイト地カール下部付近を重点捜索する。
13:28Bの遺体をハンターの1人が、カール下部50米の中の沢で発見。合図のためライフル3発放つ。Bであると確認。
14:00二次隊、八の沢カールサイト地到着。
14:10鳥大、中央鉄道学園大、ハンター9名BCに戻る。
14:30Bの遺体を前の二遺体の横に安置する。
15:00全員で焼香する。資材不足のため今日中に荼毘は困難。
18:00食事をとり、その後、九州の学生で通夜する。
20:00一次隊に加わっていたハンター9名、鳥大WV、中央鉄道学園大BCへ戻る。
21:00夜半、雨激しくなり、遺体にポンチョをかぶせる。

※Bの遺体状況
衣服は全く身につけてなく、顔面左半分が陥没、やはり全身に無数の傷跡が、はっきりと確認できる。腹部は、えぐられ、内臓が露出、致命傷は、やはりケイ骨骨折、死体にはまだ硬直があった。
天候が悪くヘリが飛べず遺体をBCへ収容する事は困難となる。

7月31日
<BC> くもり。

5:10四次、五次隊BCを出発し、カールへ向かう。

<現場> 雷、雨のちガス。

5:00起床。天候の回復を待ち、福大サイト地まで行く予定。
9:003人の遺品収容活動。
12:00福大パーティのテント撤収を断念。(ガスと強雨のため)
13:00検死を行う。本学山本、連盟中村、立ち会いのもとに。
13:30四次、五次隊カール着。
14:00荼毘の資材集め。
16:00荼毘の準備完了。
16:30全員で焼香し、その後九州学生WV連盟の者で、最後の別れを告げる。
17:00三遺体を再確認し、荼毘にふす。
20:00全員で見守る。

8月1日
<BC> 小雨
遠藤氏診察のため医者、山岳関係者、八の沢出合にむかう。
<現  地> 雨。

5:403君の遺骨を拾う。
6:00納骨完了。
7:00荼毘の跡片付け。
8:00現地出発。
10:20ハンターの遠藤氏、沢に転落し、骨折。
22:30捜索隊BC着。遺骨を遺族に手渡す。
23:30帯広東本願寺別院にて、仮通夜。

遠藤氏負傷のため、全員今日中の下山は不可能であるため、八の沢出合に、青山氏他山岳連盟、ハンター数人が残り、他の者は下山する。

8月2日
<帯広> 晴。

1:00学生、出雲旅館に着く。
10:40帯広署で遺品を確認する。
16:00捜索隊全員下山。
17:00志田病院へ行き、遠藤さんを見舞う。
17:43遺骨、遺族、帯広出発。(札幌泊)
23:30木村、太田を残し、他の者(OB松本、連盟中村、現役山崎、山本、坂本、佐藤、村上、高橋)は、田中学生部長、渡辺ワンゲル部長と共に帯広を発つ。

8月3日

11:40遺骨、遺族、田中学生部長、渡辺部長、全日空第56便で千歳発。
13:00東京着。
15:50板付着。(渡辺部長、A君遺族は次の便。)
17:00学生三階、第六会議室にて、「お別れの会」。
18:30渡辺部長、A君遺族、板付着。

8月4日
<福岡、高千穂> 晴。

14:30B家にて葬儀。
16:00A家にて葬儀。

8月5日
<福岡> 晴。

6:01現地救援部員:OB松本、佐藤、高橋、急行「桜島」にて帰福。
14:30C家にて葬儀。

※第一次捜索隊メンバー 帯広警察官加藤氏他2名 山岳会竹内氏他5名 ハンター野際氏他8名、鳥取大学WV清水他3名 中央鉄道学園大学佐々木他1名、福岡大学WV山本。 計25名。

第二次捜索隊メンバー 山岳会青山氏他4名 山岳連盟通信部阿部氏他2名 熊大WV石川他3名 室工大山下君他1名 計14名。

第三次捜索隊メンバー ハンター遠藤氏他3名 検死官青木氏他1名 福大WV坂本、佐藤、村上、九州学生WV連盟中村。 計10名。

第四次捜索隊メンバー OB松本、福大WV太田、木村、山崎、●●●、●●●。 計 6名

第五次捜索隊 清水山岳会小野氏他5名 福大WV高橋、●●● 小樽商大松田氏他3名 ハンター金子氏他2名 計16名。

福大ワンゲル 現場状況

反省記録

これは、OB会長松本氏、九州WV連盟編集委員中村君に同席して頂き数度にわたる現役反省会に於けるメモに検討を加え、現役四年及び三年会員でまとめたものである。

この度、我福岡大学ワンダーフォーゲル北海道日高縦走パーティーが、日高山脈カムイエクウチカウシ山十勝側、八ノ沢カールにおいて、遭難し、A君、B君、C君の尊い生命が、失なわれるという最悪の結果に終りました。ここに、関係者の皆様に、多大な御心労、御迷惑をおかけしましたことを深く、お詫び申し上げると共に、とくに現地において三君の捜索並びに遺体の収容に当って困難な条件の中を献身的に活動して頂いた十勝地方山岳連盟やハンターの方々、自分達の計画を中止して応援にかけつけてくれた九州産業大をはじめとする他大学のワンゲルのパーティーの方々および終始好意的に協力を惜しまれなかった警察その他の関係者の方々に、この紙上をかりて、改めて深く感謝の意を表したいと思います。

私達は三君の冥福を祈ると共に、今度の遭難が滑落、雪崩等の山岳遭難とは違い、十勝地方では戦後初めて熊に襲われたものであるという特異性はありましたが、この悲しい事実に対し、ここに深く反省し、その原因を追求するものです。

私達は、この事故に対する自覚を新たにし、三君の尊い犠牲を無駄にすることなく、今後、このような事故を再度繰り返さない為にも、日高遭難の諸要因を深く検討すると共に、今日までのワンゲル活動の歴史を顧みて、反省すべき点などをきびしく真剣な態度で追及し、全ての自然に対して、今一度、深く謙虚に考えることが、必要であると思うものです。

パーティー編成について

メンバー編成については、体力等を考慮に入れ約2ヶ月前に編成される。編成については、まず部員の希望を聞き、PL(パートリーダー)、SL(サブリーダー)により最終的に決定し、その後、部会で最終検討し、PL及びSLはトレーニング、ミーティング、ワンデリング、及び予備合宿において、メンバーの体調、性格、持病などについて把握する。合宿において我クラブではそうするのが常であり、今回の日高山脈縦走パーティーもそうであった。
PL、SLの登山歴は二年数ヶ月、合宿日数は年間百有余日であったが、今回の縦走にあたってはそれを為し得るだけの体力と経験は、積んでいたと思われる。一年部員にとっては、少々高度であったが、3人の経験者でそれをカバーできると判断した。
メンバー構成としては特に問題はないと思われる。

装備及び食料について

装備については、日高山系の特徴を考慮に入れ、縦走の為の装備ばかりでなく沢歩きの為の草鞋また渡渉、危険箇所の安全確保の為のザイルを持っていっており夏山装備としては専門家の方々からは問題はなかったという見解を得ている。

食糧についても今回の実質行動日数13日分の他に予備食5日分を携行しており合宿を遂行する為にも十分であったと思う。

気象について

天気図用紙20枚を携行し一日一回NHKの午後四時の気象通報をもとに作成し、予想は一応当たっていた。

医療について

合宿時には本学健康管理センターで健康診断を行うことを常としており、また携行する医療箱の内容は、本学校医三浦氏並びに健康管理センターの助言をもとにしており、不足分は健康管健康管理センターから貸与される。
また日高パート出発前日には、九州学生WV連盟福岡地区の医療講習会が催され、A君、C君が出席しており、そのパンフレットはパーティー全員が熟読していた。

計画書作成について

当初、山と溪谷社のアルペンガイド「北海道の自然美を訪ねて」と「山と溪谷」に連載の日高の山、日高山脈の地図を参考にし、原案を練るかたわら、九州学生WV連盟を通して関西学生WV連盟より取り寄せた、同志社大学WVの日高山脈縦走行動表、大阪経済大学独立総部WVの北海道十勝地方山岳遭難防止協議会の「山のあんない」を参考にし原案を修正し疑問点を解消した。なお、北海道大学の山岳部、W.V部に問い合わせた。

また、行動日程については、1日の工程を同志社大学W.V部の実際に歩いた距離を参考にし、最初20日間に予定していたが、食料、装備の重量、山のブッシュなどを考慮し、行動日数13日、予備日5日にし、又、エスケープルートは五ヶ所考えていたので、日程、行動の面では、万全をきしたつもりである。

現地での行動と判断

S.L佐藤による現地での判断によると、25日夕方初めて熊が現れ、食料を少し食べられた時に、何故、すぐに下山しなかったか、次の3点があげられる。

  1. 時間的に下山するには、余りにも遅く、暗いので危険だった。
  2. 熊の行動が暗くてつかみにくかった。
  3. 過去日高において人に危害を加えた記録がなく、ラジオ、食器を鳴らし、火を焚いたら、姿を消したし、又、明日、カムイエクウチカウシをピストンして下山する予定だった。

翌26日朝、熊に襲われた時、全員で何故下山せず、二人でハンターの要請に行ったか、という点について、熊が一日中、テントに居すわるか、又、テントの回りをうろつくと思った、それに、下山するならば、全員、金銭、貴重品はキスリングの中にあったしキスリング・テントを、持ちかえろうとしたからであった。

その後、26日PM2:00ごろから1時間くらい歩いて稜線上にテントを張ったのは、翌日カムイエクウチカウシ山をピストンし、八の沢へ下るルートがサイト地のすぐ近くにあったからであり、26日カムイエクウチカウシ山を越えて八の沢カールに行くには、全員の体力的、精神的に無理であったからであった、又、日高へ行く前に得た熊の習性からして、カールボーデン沢の近くにより、稜線上の方が安全度が高いと思ったからであり、熊の行動が低いところより高いところの方がとらえやすかったからであった。

探究

今回の遭難は、誠に不幸な出来事であった。当時日高山系に入山していた約三十パーティーの中で、今回のように悲劇にみまわれたのが、たまたま我クラブのパーティーであったという事は、不運という外はない。途中熊に出会いさえしなければ、そしてその熊が今までの常識では考えられない執拗に人を追い人を襲うといった熊でなかったら、全員無事に予定コースを終えて下山していたであろうことは間違いない。

すなわち、熊の件を除けば、今回の日高縦走の計画や装備・食料・治療・気象その他の準備については、専門家の判断でも特に問題はなかった。只、日程の点で若干無理があったとの指摘をうけたが、この点も、カムイエクに来るまでに予備日四日を使い、最初の予定であったペテガリまでの縦走を断念して、カムイエクで打ち切って下山することにしていたので適切であったといえる。したがって、問題を熊の件にしぼって検討して差し支えないであろう。

今回の様に人を襲って殺すような熊が日高山系に出没するということについて事前にはっきり分かっていたならば、今回の悲劇はおそらく避ることが出来たであろう。その点で事前調査が甘い、北海道の山を知らないという非難を一部の新聞からうけた。また最初に熊に襲われていた特に下山しておればーーーーと言う事もよく聞く。結果的にいえば確かにその通りである。したがって、問題を事前調査の適否と最初に熊に襲われた段階でパーティーの判断の二点についてみてみたい。

I 事前調査について

今回の計画作成で参考にした資料は別頁「計画書作成について」で述べられてある通りである。これを見れば分かる様に当然なすべき調査は一通り行なっていたと言えるであろう。もちろんこれで100%完全といえないとしても、少なくとも手落ちがあったとはいい難い。問題は、これらの資料からは、普通の熊についての習性や対処の仕方については知ることが出来ても、今回の熊のように、今までの常識では考えられない凶暴な熊については知ることが出来なかったという点である。

すなわち、我々は今回の様な悲劇が起こることを事前に予測しうる状態にはなかったといえるのである。もし我々の事前調査が甘かったとするならば、当然、現地の状況をよく把握して書かれたはずの「ガイドブック」にその点の明確な指摘がなかったことこそ問題にされなければならないだろう。もう一つ重要な点は、我々がその点を知らなかったのは、九州に居るからであり現地ではそのことが分かっていたのかということである。この点もそうとは言い難い。

今回の遭難は、地元にとってもはじめての事件であり、先例はなかった。(しいていえば52年前の大正七年大雪山系で熊に襲われて死亡した事件がある。)我北海道日高パーティーが営林署に入山届を出した時の問い合わせに対しても、熊についての警告は与えられていない。また七月に入ってから日高山系に入山した51パーティー、276人の中には、本州からのパーティーだけでなく、北大、室蘭工大、小樽商大などの北海道のパーティーや、現地の帯広畜産大のワンゲルのパーティーも含まれている。とく帯広畜産大のパーティーとは本学パーティーは現地付近で顔を合せ、テントサイトの指示を受けている。(そこに熊が現れた。)

また、一ヶ月前、日鉱室蘭の社員が単独登山して行方不明になった時の日高山系の山狩りには、特にハンターを動員していなかった。これらのことは、いずれも、地元においても、今回の様な悲劇が起ることが明確に予想されていなかったことを示している。あるいは極く一部の人々には、このことは予測さていたかも知れないが、われわれだけでなく、地元の人を含めて一般に今回の悲劇は予測されていなかったと言って良いであろう。
それであればこそ、今回の遭難を新聞も連日のように大きく取り扱ったであろう。したがって今回の事件は、地元を含めて日本人全部に大きな衝撃と教訓を与えた最初のケースというべきであろう。

その意味で、三君の尊い犠牲を無駄にしない様に、今回の事件の教訓を最大限に生かさなければならない。また今回の熊が、従来の熊についての常識から離れた特別の熊であったという点も重要であろう。普通、熊は特別のことがない限り熊の方から人を襲うことはなく、大きな音をたて、火を焚けば逃げるとされている。しかし今回の熊は、火を見ても、音を聞いても恐れず、積極的に人間に近づき、執拗に人間を追って、遂にこれを襲って殺した。しかも、夏熊は痩せているという常識に反して、冬熊のように肥えていたという。恐らく近年、登山者の増大に伴う人間との接触によって

熊の習性が変って、この様な熊が出て来たのであろう。そして、その様な熊がいるということが、今回の遭難を通じてはじめてはっきりと知らされたと言っていいであろう。

II パーティーの判断について

結果的にいえば確かに最初の襲撃(一回目および二回目)をうけた時点で下山しておれば、今回の悲劇は防げたであろう。その時なぜ下山しなかったのか、この時のパーティーの判断については別項で述べられた通りである。これを見ると、この段階でも、今回の悲劇が起ころうとは予測してなかったことが分かる。生存者の証言によっても、誰も下山しようとは考えなかったという。結果的には確かに熊に対することは可能であったし結果的にはその方が良かった。

しかし一回及び二回の襲撃では、人を襲うことはなく熊の行動がいわば常識の枠内であった(一回目には音を立て、火を焚いて、間もなく姿を消した。)という点、および事前調査によって得られた知識からは、熊が人を襲って殺すという様なことが起きる可能性については、何ら知らされていなかったという点からすれば、そのようなことが起こると予測しなかったとしてもそこに無理があったとはあながちいい難い。

今回の事件はそのような意味でも、こういう悲劇が起こることが事前に知らされ、予測されておりさえすれば、防げたであろうが、それを知らされていなかったし、予測されていなかった。そして事実上、事前にそれを知り、予測することが出来なかったが故に発生した遭難であって、そのような意味で不可抗力であったといわざるを得ないのである。そして、今回の三君の尊い犠牲を通じて得られた一つの教訓は、常に不測の事態に備えて万全の対策をとるということであろう。

原因探究としてのクラブの方向

今回の遭難は確かに不可抗力という言葉で表すことができるかも知れない。しかし今回の事件を簡単にそれで片付けてしまえない何かが直接的ではないにしても原因としてクラブ内に存在していたように思える。その問題となる点を探求してみるとクラブの歴史、発展そしてクラブ内の風潮を取り上げることが出来るのではないか。

現在我クラブは昭和38年発足し今年で8年目を迎え現在同好会から部への昇格の段階でありクラブを充実させる為、講堂面では年々の春夏の合宿における日程は15〜20日の長期にわたりコースもより広範かつ既成ルートではなく未だ人の少ない条件の厳しいところが選ばれるようになり、活動も年々拡大してきた。
活動の拡大ということはクラブの発展として当然であり、またそれだけの行動が出来るだけの技術、体力は持っていると思う、また日々のトレーニングは週4日間のランニング(約10K)及びボッカ、土日用における近郊山岳地帯へのワンデリング等により、心、技、体の鍛錬を行って来た。しかしながらこのようにして心、技、体の養成をはかってきたものの自己の体力を過信するあまり、また根性を強調するあまり、強気の方向へ走ってきたことも事実である。

特にクラブの風潮としてある程度の困難を乗り切ってでも計画、目的を完遂しようとする反面、困難に直面したときに途中で断念するような謙虚さを欠いていた。我クラブがスポーツワンデルングを骨子にしており行動中心及び技術中心であった為、体力面にたよりすぎたきらいもないでもない。体力中心になるあまりそれに付随する精神面の欠如又ミーティングの欠如があった。尚ミーティングを重視しない風潮があった点は反省しなければならずミーティングの内容充実に力を入れるべきであった。
この三人の犠牲の前にクラブの現場を投影しまた現場を顧み改めるべきところは

充分に反省し改めクラブの体制、ワンダーフォーゲル同好会のあり方を再考し、したより充実したサークル活動を誓うものである。

経費一覧表

A君の主な活動歴

昭和24年10月31日生
福岡大学経済学部産業経済学科3年
福岡県立西福岡高校卒業

昭和43年度
4月10日福岡大学ワンダーフォーゲル同好会入会
4月28日新人歓迎ワンデルン(於十坊山)
5月19日〜21日新人強化合宿(於九重山)
6月16日6月定W(於脊振山)
6月29日〜30日夏季予備合宿(若杉・宝満縦走ボッカ)
7月15日〜28日夏季合宿(北アルプス、剣〜槍→鹿島槍縦走)
10月8日〜11日秋季合宿(於由布、鶴見岳)
10月25日〜27日第一回オープンワンデルン
11月2日〜4日九州学生オープンワンデルン
11月30日〜12月1日12月定W(96Km徒走ワンデルン)
昭和44年度
2月13日〜3月2日 春季合宿(九州横断)
3月3日〜5日春季合宿統一合宿(えびの高原)
4月26日〜27日4月定W(於雷山、井原山縦走)
5月3日新人歓迎ワンデルン(於若杉山)
5月11日油山ボッカ
5月16日〜19日新人強化合宿(於阿蘇山)
5月29日〜6月1日九州学生連盟合同ワンデルン(於九重山)
6月14日〜15日6月定W(於馬見、屏、古処山縦走)
7月5日〜6日夏季予備合宿(於若杉、宝満縦走ボッカ)
7月16日〜8月2日夏季合宿(南アルプス全山縦走)
8月3日〜5日夏季統一合宿(於八ヶ岳)
8月6日〜10日能登PW
10月10日〜12日第二回オープンワンデルン(於九重山)
11月1日〜3日九州学生連盟オープンワンデルン
11月12日〜16日秋季合宿(於背梁山地)
12月7日12月定W(80Km徒走)
昭和45年度
2月15日〜3月7日春季合宿(九州一周徒走、延岡→国分間)
4月18日〜19日宝満観月登山
5月3日〜5日PW(於湧涌、九重山)
5月29日〜6月1日九州学生WV連盟合同ワンデルン(於霧島山)
6月28日沢登りPW(金山)
7月4日〜5日海岸トレーニング
7月14日〜26日夏季合宿(日高山脈)
7月27日未明熊に襲われ死亡

B君の主な活動歴

昭和26年1月1日生
福岡大学工学部土木工学科2年
宮崎県立高千穂高校卒業

昭和44年度
4月10日福岡大学ワンダーフォーゲル同好会入会
5月11日油山ボッカ
5月16日〜19日新人強化合宿(於阿蘇山)
6月14日〜15日6月定W(於馬見、古処山縦走)
7月5日〜6日夏季予備合宿(於若杉、宝満山縦走ボッカ)
7月16日〜8月2日夏季合宿(北アルプス全山縦走)
8月3日〜5日夏季合宿統一(八ヶ岳)
10月10日〜12日第二回オープンワンデルン(於九重山)
11月1日〜3日九州学生連盟オープンワンデルン
11月13日〜16日秋季合宿(於筑紫山系)
昭和45年度
2月15日〜3月7日春季合宿(九州一周徒走、延岡→国分間)
4月18日〜19日宝満観月登山
4月29日新人歓迎ワンデルン(十坊山)
5月3日〜5日PW(於九重山)
5月21日〜24日新人強化(於九重山)
5月29日〜6月1日九州学生連盟合同ワンデルン(於霧島山)
6月27日〜28日2年PW(於脊振山)
7月4日〜5日海岸トレーニング
7月14日〜26日夏季合宿(日高山脈)
7月27日熊に襲われて死亡

C君の主な活動歴

昭和27年2月11日生
福岡大学経済学部経済学科1年
私立東福岡高校卒業

昭和45年度
4月10日福岡大学ワンダーフォーゲル同好会入会
4月29日新人歓迎ワンデルン(於十坊山)
5月21日〜24日新人強化合宿(於九重山)
5月29日〜6月1日九州学生連盟合同ワンデルン(於霧島)
6月27日〜28日沢登りPW(於金山)
7月4日〜5日海岸トレーニング
7月14日〜26日夏季合宿(日高山脈)
7月26日未明熊に襲われ死亡

Bのメモ

遺体付近からB君の手帳が発見されました。

クマはまず1つのキスをはこび出し、テントから10mのしげみの横でむさぼりだす。
昨夜は交代で、徹夜したので一人は上の尾根の縦走路で睡眠をとり、二人で見張る。

5:24クマが右下5mぐらい、キスを加えて移動する。
5:30テントに近づき、たおれたテントをひきかきまわす。
 キャンパンのついたキスを持って左下の日影のところに持っていくが、なにもせず、またテントに近づく。
 グランドシートの上においていたセイテツパンを食べているようである。
5:40おそらくAさんのキスをもって下方にもっていくが、またそこにおいてテントのところにくる。
 Bのキスを加えて10mぐらい下るが、キスを置いて左へまきながら、姿を消すが、またBのキスをくわえて下りだす。30m下の低木地帯の中へ入る。
5:485:48 再びテントに近づく。Bのキスは下に置いたまま。
5:50左の方へ移動する。
 左の雪けいの横の岩場に現われる。またかくれる。上に登ってくるようである。
 テントから左上方200mのところにくる。3人も上方へ上る。
6:00小さな雪けいの近くにくる。しばらくして下り始める。
6:07テントの横にくる。突然ラジオが鳴り出し、クマがあわてて右方向へ走って遠ざかり、カールの尾根で横たわる。
6:13林の中へ姿を隠す。行方がわからない。
6:35尾根に3人とも上る。今のうちにできるだけキスを上げることにする。
7:15縦走路の分岐までキスを3個上げ終る。
7:30腰を下ろし3人集まって気分をほぐす。
8:30いままで快晴であったが少し雲の割合が多くなり心配である。が、3人とも歌など歌って気配するが、しばらくすると歌もつきて眠る。
 (注 気配ーーーー気晴らしーーーーではないだろうか)
9:25目をさます。
9:30腹がへったので、カンパンを食べる。
9:55水くみ(20ℓ)と残りのキスとテントを取りに行く。
10:35尾根に着く。高橋のキスがイカレる。
11:30昼食。
11:45島根大現在地を通過。(注 島根大ーーーー鳥取大)
12:05Aさん、佐藤さんを迎へに沢を下る。
13:30現地点を会合。
13:45佐藤さん帰ってくる。全員無事。

7月26日

7月26日
18:00夕食後クマ現われる。
 テント脱出 鳥取大WVのところに救助を求めにカムイエク下のカールに下る。
17:30我々にクマが追いつく。
 Cがやられたようである。オレの5m横、位置は草葉のガケを下ってハイ松地帯に入ってから20m下の地点。
 それからオレもやられると思って、ハイ松を横にまく。するとガケの上であったので、ガケの中間点で息をひそめていると、Aさんが声をからして鳥取大WVに助けを求めた。

オレの位置からは下の様子は、全然わからなかった。クマの音が聞えただけである。仕方がないから、今夜はここでしんぼうしようと10〜15 分ぐらいじっとしていた。Aさんが何か大声で言っていたが、全々聞きとれず、クマの位置わからず。
それから、オレは、テントをのぞいてみると、ガケの方へ2〜3ヶ所たき火をしていたので、下のテントにかくまってもらおうかとガケを下る5分ぐらい下って、下を見ると20mさきに、クマがいた。オレを見つけると、かけ上がってきたので、一目散に逃げ、少しガケの上に登る。まだ追っかけてくるので30cmぐらいの石を投げる。失敗である。ますますはい上がってくるので、15cmぐらいの石を鼻を目がけて投げる。当った。それからクマは10m上方へ後さがりする。腰を下ろして、オレをにらんでいた。オレはもう食われてしまうと思って、右手の草地の尾根をつたって下まで、一目散に、逃げることを決め逃げる。前、後へと、横へところび、それでも、ふりかえらず、前のテントめがけて、やっとのことでテント(たぶん6テン)の中にかけこむ。しかし、誰もいなかった。しまった、と思ったが、もう手遅れである。中にシュラフが、あったのですぐ一つをを取り出し、中に入りこみ、大きな息を調整する。
もうこのころは、あたりは、暗くなっていた。しばらくすると、なぜか、シュラフに入っていると、安心感がでてきて落着いた。
それからみんなのことを考えたが、こうなったからには仕方がない。昨夜も寝ていなかったから、このまま寝ることにするが、風の音や、草の音が、いやく気になって眠れない。明日、ここを出て沢を下るが、このまま救助隊を待つか、考える。しかし、どっちをとっていいか、わからないので、鳥取大WVが無事報告して、救助隊をくることを、祈って寝る。

7月27日
 4:00頃目がさめる。外のことが、気になるが、恐ろしいので、8時まで、テントの中にいることにする。テントの中を見まわすと、キャンパンが、あったので中を見ると、御飯があった。これで少しホッとする。上の方は、ガスがかかっているので、少し気持ち悪い。もう5:20である。またクマが出そうな予感がするのでまた、シュラフにもぐり込む。
 ああ、早く博多に帰りたい。
7:00沢を下ることにする。にぎりめしをつくって、テントの中にあった、シャツやクツ下をかりる。テントを出て見ると、5m上に、やはりクマがいた。とても出られないので、このままテントの中にいる。
 3:00 頃までーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー(判読できず)
 しかし、ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー(判読できず)を、通らない。他のメンバーは、もう下山したのか。鳥取大WVは連絡してくれたのか。いつ助けに来るのか。すべて、不安で恐ろしい。
 またガスが濃くなってーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー(判読できず)

※判読できなかった所もありましたが、以上原文のまま記しました。

高橋の報告

日高Aパートの一行5名は、25日の夕方、初めて熊に会った。その時は、皆、珍しがってテントの下を開けて見たり、Bさんが、カメラに収め、自慢話しが出来るといった具合で、恐怖を感じた者はいなかった。その熊は身長2M程で、茶色というか、黄金色や白色毛が目立つ。歩き方はノソノソと歩き、ノソッとした顔をして、此方をうかがっていた。その日はテントの近くに来て、キスを破って、食糧を少し、くわえて、雪渓に隠れて、時々顔を出す。近づいた時など、鼻息のグゥー、グゥーと言うのが聞こえる。26日は、4:30頃に姿を現し、ためらいもなくゆっくり近づいて来る。皆で、にらみつける。それでも近づいて来たので、テントの中に回避する。すると、テントの入口を、ひっかき始め、佐藤さんと、Bさんが押さえるが、熊の力が強いので、とうとう破れて、後から、一斉に逃げ出す。それを見て、後を追って来ないかと、気に掛けながらも、走りに走った。遅れながらも、振り返ると、熊は悠然として、テントに居すわって食糧をあさっている。佐藤さんと、C君が、急を告げに、九の沢を下っていた後は、早く、救援隊が来ないものかと、一人で考えた。熊は、2時間程、キスを引張り回しては、かじりつく、時々、茂みに姿を隠す。そうして飽いたのか、沢の方へ去って行く。3人は用心をして、沢が見えるところに行って、クマがどうしているのか確かめると、姿が見えなかったので、僕が見張りをして、Aさん、Bさんが撤収に行って、キス3つを昨日下った道を登って上げる。その後、呼び寄せ、休憩をとった後、今度は3人で下りて、残りの装備と水を汲み上げた。12:00頃にAさんが下って行った。2人が心配だからと言って、アタックザックに、水、食糧、衣類を詰め、迎えに、稜線沿いを行く。残った2人は、キス4つに、パッキングを進める。その時に、鳥取大学、中央鉄道学園大学の学生に会って、熊が、居るから危ないと注意した。

僕達が、又しても熊に襲われ、尊い3人の命を奪い去ってしまった。誠に、悲しい出来事だ。一番目の犠牲者は、一年生のC君である。つい先まで、遠くに眺められる町を見ながら、明日は、下山をして、何と、何とを食べ、青函連絡船に乗って、博多に帰られると、話をした後に、襲われた。その時「ギャー」と叫んだ後「畜生」と大声を上げたのを、ハッキリ覚えている。

その後、Aさん、佐藤さんが集合を掛けたが、集まったのは僕だけだった。Bさん、C君は来なかった。一応熊が、来ないだろうと思われる岩場に上がって、下のテントに向かって、大声で叫んだ。ようやく、火を付けたが、距離が遠い。その後下の者は逃げて行ったと、Aさんが確認した。その晩は、どうする事も出来ずに、その場に恐怖に、おびえながら、一睡も出来なかった。翌朝、二番目の犠牲者が出た。3人でC君が心配であったから、8時に下りて行く途中ガスの晴れ間から、熊の姿が現れた。一瞬、唖然とした。
後は、佐藤さんと、八の沢を下って、熊に襲われた事を知らせに行く。その途中は、いつも、後に気をつけて、遠くに見える切り株、大きな岩が、何度も熊に見え、足が止まった。午後1時に五の沢に着いて、事情を話した。
3番目の犠牲者のBさんは、26日の夕方に声を聞いたのが、最後だった。それにしても、何んで、僕達のパーティーを何度も襲ったか、憎い熊め!

古いハンターの話によると、日高で今度の事件は珍しいらしく、熊の習性は、一度、味を覚えたら、その味を次々に求めて行く。人を襲った時は、塩分が少ないので、人の血を吸ったり、肝臓を食べるそうだ。又、獲物は、最後まで、しぶとくやるということだ。捜索隊が、出発するまで、本当に、長く、恐ろしい時間が続いた。

佐藤の報告

7月25日
夕食後、4:30分頃、クマが現れ、1時間位はテントの回りをうろつき、テントの外に置いていたキスの食料をあさり出した。様子を見てキスをテントの中に入れ、火をたき、ラジオを鳴らすと姿を消した。
7:30分頃、この夜は、熊を警戒の意味で2人づつ起きて、2時間交替で寝た。

7月26日
起床午前3時、食事後パッキングの途中<4:30〜5:00 >に、また熊が現われた<昨日と同一の熊。背丈2M位。茶色に白が混っている>ので、キスをテントの中に入れ、全員テントに入る。それから熊は、テントに侵入しかけ、テントの入口付近から侵入し始めたので、入口の反対の方向から一斉に逃げる。A、B、高橋、C、佐藤の順序で高い方へ逃げる<高い所から熊を見るため、30M〜40M上>。

逃げた後、テントの方を見ると、熊がテントを倒し、キスの食料をあさっていた。この時、Aより佐藤に、Cを連れて、九の沢を下り営林署に行きハンターの出動を要請するように頼まれた。そして、九の沢を下る途中、八の沢の出合で北海学園に出合い、事件の報告をする。営林署と学校に連絡をしてくれるということで、食料、装備(ブス、地図、ガス、ローソク、メタ、水ポリ)を借り、(サブ、ナップをもらい)八の沢の方を詰めて、稜線上に12:30に出る。A等と合流(1:00 )。その間、鳥大ワンゲルと中央鉄道学園とにA等が合い、その後、佐藤、Cと合う。Aの話によると、熊は6:30〜7:00 の間に逃げたので、テントとキスを稜線上に上げ、両名を待つ。合流しパッキングしなおした。その時は、キスは4つで、一つは(高橋のキス)リングのところがとれ、かつげない。1:00 〜1:30間歩いて、サイト地を佐藤、Aが探す。20〜30m位の所の中間ピークに見つけ、食事用テントの修理(佐藤、A行う)を平行して行う。先に食事をすまし、テントを立てる(5:00 位)就寝の用意の途中、テントの反対側一m附近に熊が現われた(5:10)。高橋が「熊」とさけんだので、佐藤とAが入口の方へ行き、後を確認し、一斉に逃げろとAさんがさけんだ、カムイエクの方に50m位逃げて止まり4人を置いてAが2回見に行く。一回目に行った直後、CとBに「鳥大のテントに行き、泊まらせてくれる様に相談に行け」と、命じた。そして2回目帰って来て、テントにはとまれない(熊が居すわっているから)と判断して鳥大のテントの方へ向かう。途中帰って来るBとCに出合う。2人の話によると鳥大のテントはピークを越して行かねばならないので時間がかかるから鳥大のテントを確認しただけで、帰って来たという話だった。全員で鳥大のテントに向かう。ピーク(カムイエク)直下100m位の地点よりカールに降りることにして下っていた。その稜線から60〜70m下ったところで(下る時はA〜佐藤の順序)高橋が稜線から降りて来る熊を発見し、さけんだ。「熊だ!!」。この時熊は佐藤のうしろ10m程の所にいた。一斉にカール方面へ逃げると直ぐ、這松の中で「ギャー!!」とさけび声が聞こえる(Cらしい)。30秒位這松の中でゴソゴソし、その後Cが「畜生!!」とさけびながら熊に追われカールに向かっていたので皆で(バラバラの状態であるが)鳥大のテントに向かって「人が熊に襲われている、Cを助けてやってくれ」とさけびながら行く。

その後佐藤はAと出合い、高橋も集まる。その時Bは集まらなかったけれども応答があった。(20〜30 m近く)。この時Cの2〜3m位後を熊が追っていた。それから3人は安全と思われた岩場へ逃げる。(7:00 位)。その夜は仮眠程度で、翌朝の8時まで行動しないとAが言った。佐藤は12時まで待とうと言った。(12時まで待てば、北海学園の連絡によって救援隊が上って来ると判断する、又ガスも晴れると判断した。)8時になると、Cの安否を気付かい、カールに向かって降りて行った(A、佐藤、高橋)。下り出して10〜15 分位で2〜3mて前に熊が現われる。その時3人ともふせた(この時佐藤が「死んだまねをしろ」と言う)。30秒ぐらいで熊が「ガォー!!」と言った。Aが起き上がってカールの方へ下って行き、その後をすぐに熊が追って行ったのを佐藤が見る。(ガスで視界5m)。その後直ぐに佐藤と高橋はカムエクと反対方向へ逃げ八の沢を下る。八の沢出合が10:30。五の沢工事現場(1:00 )で事情を話し、ここの人に聞いたところでは「鳥大の2人は中札内派出所に向かった。」という事だった。2人とも派出所に行きたかったので、その旨を伝えると、セメントの車で送ってくれるという事だった。4:00 に出て、途中鳥大生2人と会い、話を聞くところによると、ヘリコプターで捜索に向かってくれたということだった。駐在所に着いたのが5:30〜6:00で、この時学校家族にも連絡がついているということであった。そこで調書を取られ、11:30中札内の旅館(マリモ旅館)に泊る。次の日一次隊と会う為鳥大生4人と村役場で待つ。4:45頃、山本、渡辺部長と会い、五の沢B、Cまで一緒に行き途中ハンターの人に事情を話す。

逃げた時の服装

高橋:キャラバンシューズ。
A:素足でくつ下なし。
B:くつ下とわらじを手にして、くつ下をはく。
C:素足にサンダル。
佐藤:くつ下<ストッキング、ソックス2>

ビバーク時の服装

佐藤からA君へナイロンソックス、ショートのくつ下を貸す。
佐藤から高橋へロング白ストッキング片方を貸す<B君のくつ下の片方を佐藤が持っていたのを高橋に貸す>
A君から佐藤へ白いジャンパーを貸す。

八の沢を下る時

八の沢へ下る時、くつ下を脱いだり、着たりした(ニオイを消すため)くつ下は五の沢においてきたので地下タビを登山者よりもらう(中札内へ下る時)。

以降、編集後記までの36−37Pは救助隊氏名の記載のため省略

編集後記

遭難以来きょうで丁度一ヶ月、未熟ながらここに報告書を作成することができました。
遭難に関しましては永きに亘って、多大な御援助、御協力下さった関係各方面の方々に、紙面をもちまして深く感謝致します。

遭難というこの悲しい事実を十二分に認識し、その原因となるものを徹底的に追求するために、会員一同汗して、飛び回り、どうにか、一段落着したような気がしますが、3人の会員を亡くしたこの悲しみは、日々に強くなり、寂しい気がしてやみません。又ご遺族方の涙を見るにつけ、我々は、三人の分まで、頑張らねばと、心に誓っております。

<大下記>
昭和45年8月
福岡市七隈11番地
福岡大学体育会
ワンダーフォーゲル同好会


<報告書ここまで>

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