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登山1年目の集大成は…剱岳!?

その人が登山に興味を持ち必要な装備や知識を得てもらうために、そしてその人が安全かつ楽しく登山できるために、「誘う側」がしなければならない工夫や知っておくべきノウハウ。この連載は私自身の経験を通して、そのヒントを得ていただくために始まりました。
前回の記事で「山のリスクと安全登山への備えの重要性」を体感した斎藤さん。
難易度や達成感などを考慮して、1年目の集大成として当初私が想定していたのは「槍ヶ岳」。私自身も主要コースをすべて経験しており、何度も登頂している山です。しかし、齋藤さんから思いもよらぬ提案が。彼女の口から出た山名は「剱岳」でした。
このお言葉を聞いた時から、負けず嫌いな私の中では「剱岳で1年目を締めくくりたい」と強く心に決めていました。
様々な苦労や努力を積み重ねてきた彼女の願い…私はこれを叶えるために
【1】長時間歩行と標高差を体験できる甲斐駒ヶ岳でのトレーニング
【2】危険な岩稜を歩く宝剣岳でのトレーニング
【3】ルートの形式や危険度などの条件が似ている西穂高岳でのリハーサル
【4】時間や行程にゆとりを持って剱岳に着実に登頂するためのスケジュール
を実践しました。
【1】南アルプス・甲斐駒ヶ岳で体力トレーニング
剱岳のメジャールートは室堂から別山尾根の往復コース。総歩行距離は約16.8km、累積標高差は登り・下りとも約1980mのボリューム。危険箇所の通過スキル以前に、ある程度の体力が必要になります。「しんどさ」「疲れ」も貴重な経験


そこでまず途中の駒津峰で彼女のザックをデポし、空身で山頂を往復してもらうことに。体力的な負担を少しでも軽減する策を講じました。
しかし、それでも岩の露出したガレ道や下山時に利用したトラバースルートの滑りやすい砂礫の道で、彼女の足はクタクタに。追い討ちをかけるように下山途中では夏山特有の「雷雨」にも遭遇し、雷鳴が轟く中でずぶ濡れになりながらのゴールとなりました。
精神的恐怖と肉体的疲労が、私にとって大きなダメージとなりました。
睡眠不足と食欲不振の中で甲斐駒ヶ岳にチャレンジした齋藤さんは、登山において「睡眠」と「食事」がいかに重要かを、身をもって体感しました。元々スタミナがない彼女には尚更です。
これまでの登山で最もしんどい経験となりましたが、スケールの大きな山にアタックする際に避けては通れない「疲労との闘い」を体感したことは、大きな収穫です。
【2】中央アルプス・宝剣岳で本格的な岩稜トレーニング

それまでも瑞牆山・赤岳・甲斐駒ヶ岳で岩稜を経験した彼女ですが、宝剣岳は高度感・恐怖感ともに段違いのルートでした。

ヘルメット・ハーネスを装着し、危険を感じたら鎖場にセルフビレイできる器具も携行して挑んだ宝剣岳で、彼女は「生命に関わる恐怖感」を初体験。
恐怖を感じる“比較の基準”ができたことは、後の登山でも役立っています。

【3】危険な岩稜の登降が続く西穂高岳でのリハーサル

剱岳を擬似体験するには?
よく「剱岳にチャレンジするのであれば槍・穂高連峰を経験すべし」と言われますが…。十把一絡げに槍・穂高連峰と言っても、それぞれの山の特性は違います。槍ヶ岳・奥穂高岳・前穂高岳などの選択肢もありましたが、私は以下を考慮した上で西穂高岳をリハーサルのフィールドとして選びました。
・ベースキャンプとなる西穂山荘から複数の険しい岩峰を登降しての往復登山ルート
・西穂山荘からの歩行距離は約4km、累積標高差は登り・下りとも約675m
いずれも、剱岳・別山尾根に近い条件です。
西穂高岳で垣間見た彼女の成長
西穂高岳は独標(11峰)からピラミッドピーク(8峰)を経由して山頂(主峰・1峰)まで大小の岩峰の登降が連続するルート。稜線の両側は数百mの断崖で滑落死亡事故も多数発生しています。基本的に登りは彼女に先頭を歩いてもらい私は後方から見守っていたのですが、宝剣岳でも見せた「危険箇所での行動に物怖じしない」面を見せてくれました。
次々と現れる岩峰を着実にクリア。特に山頂直下にある急傾斜の一枚岩で的確なホールド・スタンスを見極めて三点確保を実践する姿には舌を巻いたものです。

初めてライチョウやオコジョにも出会い、ご来光や北アルプスの大展望に感動したこの日。登山を良い思い出で締めくくりたいと思って声をかけました。

【4】剱岳を安全・確実に登頂するための“ゆとりあるスケジュール”

キーワードは“ゆとりあるスケジュール”
剱岳登頂をより確実なものにするために実践したのは、徹底してゆとりのあるスケジュール。登山口の室堂からベースキャンプとなる剱沢までは約3時間半のコースタイム、雷鳥沢から別山乗越まで標高差約500mの雷鳥坂を越えていく必要があります。
そこで私は…
・前日のうちに富山市内にスタンバイし、朝一番に室堂入り
・初日は剱沢に午後早めに到着し、ゆっくり休養
・2日目に剱岳をアタックし、下山後は剱沢に連泊
という計画を立てました。
また、せっかくここまで来たのであれば2日目は剱岳から下山後に剱御前小舎か室堂まで戻り、最終日に立山に登りたくなるのが人情です。けれども私たちの目的はあくまでも「剱岳」。
日本海に近く天候が変わりやすい山ですが、連泊することでアタックの予備日もできます。
1年の積み重ねが実り無事に剱岳に登頂!

奥多摩・御岳山での初登山から1年弱で、私たちは剱岳の山頂に立ったのです。

うつ病にかかって以来「死にたい」と思うことも多かった私。けれども目の前の難所にひたすら集中して行動する中で込み上げて来る“生命を燃やしている”感覚は、「死にたくない」という感情を蘇らせてくれました。
運ではなく実力で登った剱岳

けれども私たちが剱岳に立てたのは、1年間の試行錯誤や様々な苦労を経て積み重ねた“経験と実力の証”以外の何物でもありません。「運」や「ノリ」に頼らず、「登るべくして登った」という事実は、登山にとって何よりも重要なことではないでしょうか。
「誘う側」も学んだ1年

この1年間は私にとっても…
・飽きずに登山を続けてもらう工夫
・雪山や岩稜での歩行やギアを使う技術を「教える」スキル
・他のガイドさんなど“山のプロ”から教えてもらった自分では伝えられない「学び」
・安全管理だけでなく、彼女の「気持ち」にも配慮した心遣いの必要性
など、自分だけで登山を楽しんでいたら到底得られなかった貴重な体験の連続。
下山後の剱沢では彼女から嬉しいサプライズも。1年間の感謝を伝えてもらい、私も感無量でした。

実際には精神疾患に苦しむ人が多いのにもかかわらず、そうした視線が消えない根底には「知らない」「知る機会がない」という壁があるのではないでしょうか。

ご愛読いただいた皆様、本当にありがとうございました。
ライタープロフィール:鷲尾 太輔

高尾山の麓・東京都西部出身ながら、花粉症で春の高尾山は苦手。得意分野は読図とコンパスワーク。ツアー登山の企画・引率経験もあり、登山初心者の方に山の楽しさを伝える「山と人を結ぶ架け橋」を目指しています。