稜線から遥か下に小さくベースキャンプが見えた 撮影:上田優紀
水を取りすぎたと思うくらい飲み続けたのが功を奏したのか、朝起きると思ったより体調は良かった。アマ・ダブラムの向こうから太陽が登る中、キャンプ2に向けて出発。ビレイをとりながらしっかりとした足取りで岩場を登っていく。稜線に出ると、雲の下に豆粒のようなベースキャンプが見える。随分と上まで来たな、と思ったが目指す頂はまだ遥か上空にそびえていた。
いくつもの岩壁を登りキャンプ2を目指す 撮影:上田優紀
風は弱く、快晴。山頂まではっきりと見えている。いまだにあの氷壁をどう登ったらいいのか分からなかったが、心は前を向いていた。苦しいクライミングが続いていたが、不思議と疲労が気持ちいい。地上の半分も空気が薄い中、喘ぎながら全身を使って目の前の壁を超えていく。自分の限界に挑戦し、とても充実した時間を過ごしていた。
夕日がアマ・ダブラムの山頂を照らしていた 撮影:上田優紀
気が付くとあんなに苦労したイエロータワーも乗り越えてキャンプ2に到着した。心配していた高度障害もそれほど悪くない。天気も良い。これなら行ける。夕方、黄金に染まる山頂を見ながら、明日の今頃は登頂してキャンプ2まで戻って来るぞ、とひとり心に誓いを立てた。
深夜1時。完全に寝ることは出来なかったが、シュラフを出た。熱いスープとコーヒーを2杯、チョコレートバーを1本食べ、ダウンスーツを着る。時間をかけて三重靴を履き、日焼け止めをたっぷり塗ってから、バックパックの中をチェックした。カメラ、レンズ、予備のサングラスとヘッドライト、グローブ、電池、行動食のチョコレートバーと乾燥したベリーを少々。テルモスには熱いお湯を入れている。たったこれだけの作業に1時間近くかかってしまった。
出発の準備をするシェルパ 撮影:上田優紀
外に出て、ハーネスを履き、ユマールやATC、ビレイロープといったクライミングギアをいつもの位置にセットする。満天の星々が輝く中、アタック開始。風が少し強いのが気になったが行けないほどではない。
昼間に撮影した岩の壁。ここを登ってキャンプ3を目指す 撮影:上田優紀
少し岩場を歩いてアイゼンを装着すると、岩と雪が混じった壁がすぐに始まった。先の見えない壁をヘッドライトの光を頼りに登っていく。しばらくすると岩混じりの壁が次第に雪と氷の壁へと変わっていった。しまった雪にアイゼンがしっかりと効き、ゆっくりではあるが着実に上へと進んでいける。
朝が来ると、太陽がヒマラヤの山々を照らしはじめた 撮影:上田優紀
次第に空が明るくなっていった。迷路のような氷の世界でクライミングをすること5時間。反り返った低い壁を越えるとキャンプ3に到着。完璧とは言えないが体調はそれほど悪くないし、何より気持ちは前を向いている。ただ時間がかかりすぎていた。徐々に強まっていた風は僕がキャンプ3についた頃、立っていられないほどになっていた。遮るものがないアマ・ダブラム頂上直下は強烈な暴風に襲われ、雪煙が激しく舞って山の上部は全く見えなくなっている。
頂上まであと、500m。時間にして3、4時間。行きたい。登ってしまいたい。行けるか?少しここで待ってみるか?もしかしたら風は弱まるかもしれない。色々な考えがぐるぐると頭を回る。
シェルパが助言を求め、ベースキャンプに無線を飛ばした。
「今すぐに降りろ!風がもっと強くなるぞ!」
無線の向こうから怒鳴り声が響く。風で声がかき消されているのかこちらからいくら質問をしても、何も聞こえない、という返答が来るだけだった。