昔はほとんどやる気なかったんだけど……
―――ん? 転機がトイレ??
ええ、今から15〜6年前、平成14年にトイレの改築をしておりまして。その頃はちょうど全国的に山のし尿処理問題が騒がれていて、うちもあちこちから「どうやって処理しているのか」と聞かれてました。そういった背景もあって、八ヶ岳全体で補助金を要請し、トイレを改築しようってことになったんです。
そしたら思った以上にすごくお金がかかってしまって。担当していた銀行員から「今までみたいな商売はしてちゃダメだ、稼げ!」と言われて、実質の経営を任されることになったんです。それまでは俺もほとんどやる気がなかったんだけど、ちょっと頑張ってみるかという気持ちになったというか。
―――え! やる気なかったんですか?!
親父のカラーが強かったですからね。お客さんにあんまり入ってきてもらいたくないから扉もろくに開けない。「やってますか?」ってお客さんが聞いてくると「えー」って感じで、なんか注文されてもめんどくさいから「今日やってないよ〜」とか「今日はカレーだけ」とか答えてましたね(笑)。
―――えーーーーーー!!!!! ほんとにやる気なーい!!!(笑)
もちろん手伝い始めた頃は頑張ってましたよ。自らお客さんにお酌しながら顔を売るとか。でもね、話が全然合わないんですよ。当時は百名山ブームだったから、お客さんの方はこう聞いてくるんです。「山小屋で働いてるくらいだから山がお好きなんでしょ。で、あなたどこに登ったことあるの?」と。言われたこっちは他の山なんて行ったことがない、この小屋と周辺の山しか知らないから、そこで話は終わってしまうんですね。
小屋全体が親父のカラーだし、当時は「それなら自分の出る幕はない」くらいに思っていたかもしれませんね。
―――それが、トイレを機に一変した?
ちょっとずつですね。やっぱり出会いもありましたし。例えばうちの人気グッズのひとつである手ぬぐいなんかは、スタッフからの提案を受けて始まったんです。試しに「好きなようにやってごらん」と任せてみたら、けっこう売れて。そういうふうにスタッフを始め周りの人たちに恵まれてここまで来た、というのはあると思います。
さっき話に出た入口のメニュー表もカフェの看板とか、POPなんかはみんなスタッフが自発的にやってくれています。だから、俺がどうとかじゃないんですよ。イラストに限らず、みんなそれぞれ持ってますから。お料理が得意な子もいれば、掃除が得意な子もいる。それぞれ頑張ってくれています。
―――お料理もメニューが充実していて美味しいですもんね。特にケーキ!
ああ、あれはね、嫁さんが焼いてるんです。昨日焼きあがったのを、ちょうど今日背負って持ってきたところですよ。もともとお菓子づくりが好きな人ではあったんだけど、ある時連れ立って行った試食会に冷凍のケーキが置いてあって。俺が「これやりたい、うちで出そう」って言ったら、「それなら私が焼いてあげるから」って言い出して。昔は母ちゃんがパウンドケーキを焼いて出してはいたんだけど、今は嫁さんが作ってくれてますね。
山が好き、この場所が好き
―――それはどおりで美味しいはずだ! 暖炉のある談話スペースでケーキを食べてまったり……うーん、幸せですね。そういえばあの暖炉も雰囲気があって素敵ですが、あれはいつからあるんですか?
ちょうどトイレ改築の頃ですね。ある常連のご夫婦から遺産を寄付いただくことになって。2人で旅行に行くお金として貯めていたものを「お布団を買うのにでもなんでも、黒百合ヒュッテさんで使ってもらいたい」と、遺言にあったらしいんです。
―――ええ! でも、あの、赤の他人ですよね。
はい。スタッフ一同驚きました。でもきっと、それだけうちの小屋を気に入ってくださってたんだと思います。それで、せっかくだから何か形に残るものをということで選んだのが、あのストーブなんです。鋳物の高級なもので、煙突だけで本体と同じくらいの値段がするから、結局それだけじゃ足らなかったんですけど。そんな風に思ってくださってる方がいたなんて感慨深いですね。
―――なんだかドラマチックなお話ですね。人と人とのつながりや出会いの有り難さを感じるというか。
そうですね。人とのつながり、出会いという意味では、「山の音楽会」もそうかもしれません。親父がN響のフルート首席奏者の方と知り合って、その人のコンサートをここでやったのが始まりなんですが、それから色んな人たちとの出会いやつながりがあって、かれこれもう40年以上続いているイベントです。近々、ピアノの演奏会もやりますよ。
―――ピアノ! ここまで運んだんですか?
ええ、ヘリで。毎年、調律しにきてもらって、最近はジャズとか、ピアノの伴奏で山の歌を歌おうとか、色々とバリエーションも増やしています。出演者側にはアナ雪のコーラスをやった人とか、プロのオペラ歌手なんかもいて、実はすごい人たちにご協力いただいてるんですけど、有難いことにみんな山が好きで「この場所がいい」と言って集まって来てくれるんです。それも単に自分が弾きたいから、というのではなく、「お客様が喜んでくれるのが一番だ」という姿勢でいてくれる。自分と同じ気持ちでいてくれる方々に支えられている部分は大きいと思います。
ここに来るのを楽しみにしている人の声に応えたい
―――やっぱりここは、今も昔も多くの人に愛される山小屋なんですね。
うーん、どうでしょうね。親父の代の頃に来ていた酒飲みの人たちは、単純に歳もあるし、離れてしまった部分はあるかもしれませんし(笑)。
―――ちょっと寂しいって思ったりもしますか?
いや、個人的にはこっちの方がいいかな(笑)。やっぱり若い人が入って来てくれるのは嬉しいですし、楽しく登ってもらうのが一番ですから。……ただ、ちょっと心配な部分もありますね。
―――心配、というのは?
最近ね、日帰りが多いんです。この辺りは南と違ってゴツゴツした岩場もないですし、滑落するほどの急な斜面もありません。だからガイドブックなんかでは初心者コースとして紹介されてたりするんですが、だからと言って「危険がない山」ではないんですよね。少し上の方へ行けば風がびゅうびゅう吹いているし、小石なんかがゴロゴロしているから、けっこう疲れちゃったりする。
それでも「自分は行ける」「初心者向けの日帰りコースだ」なんて急ぐもんだから、バランスを崩して転倒して、どこ折ったあそこ折ったって始まっちゃうんです。手を出せずに顔から突っ込んで、血みどろになってここまで来てヘリで搬送された方もいます。