山で起きた“現実”を集めた15の物語
山に入るとき、誰もがどこかで「熊は遠い存在」と考えているかもしれません。けれど本書は、その感覚を静かに揺さぶってきます。
新刊『怖い熊 傑作アンソロジー』(山と溪谷社)は、熊と人が交錯した瞬間を記録したノンフィクションや、実話をもとにした小説など、全15作品を収録したアンソロジーです。巻末には、作家・澤村伊智氏による随筆が収録されています。
山と溪谷社 怖い熊 傑作アンソロジー
収録作品
- 「手負い熊/風雪」今野保 『羆吼ゆる山』(ヤマケイ文庫)
- 「耕平」吉村昭 『羆撃ち』(ちくま文庫)
- 「初マタギ」甲斐崎圭 『第十四世マタギ 松橋時幸一代記』(ヤマケイ文庫)
- 「復讐するクマ」工藤隆雄 『マタギ奇談』(ヤマケイ文庫)
- 「羆対羆の死闘」西村武重 『山の風物詩』(河出書房新社)
- 「タキ」今野保 『アラシ』(ヤマケイ文庫)
- 「熊を殺すと雨が降る」遠藤ケイ 『熊を殺すと雨が降る』(山と溪谷社)
- 「牧場荒しの大羆を倒す」西村武重 『北海の狩猟者』(ヤマケイ文庫)
- 「羆風」戸川幸夫 『戸川幸夫動物文学選集4 高安犬物語』(主婦と生活社)
- 「襲撃された牛舎」久保俊治 『羆撃ち』(小学館文庫)
- 「まさかの出来事――熊に襲われる」山野井泰史 『アルピニズムと死』(ヤマケイ文庫)
- 「日高・カムイエクウチカウシ山のヒグマ襲撃事故」羽根田治 『人を襲うクマ』(ヤマケイ文庫)
- 「北千島の人食いグマ事件と私」木村盛武 『ヒグマ そこが知りたい』(共同文化社)
- 「受け継がれる人喰い熊の「DNA」~北見連続人喰い熊事件」中山茂大 『神々の復讐 人喰いヒグマたちの北海道開拓史』(講談社)
- 「星野道夫の死」スティーヴン・ヘレロ 『ベア・アタックス2』(北海道大学出版会)
息をのむ緊張感――収録作品に描かれる“熊の現実”
作中では、マタギと熊の遭遇をはじめ、釣り中の襲撃、山中での事故、集落周辺で起きた出来事など、熊と人の間で起きた緊張や衝突、激闘、悲劇が描かれています。
熊との遭遇によって、一瞬で状況が変わる場面も数多く登場。わずかな判断の遅れや予期しない遭遇が、深刻な事態につながることもあり、山の厳しさをあらためて感じさせます。
あれだけ細心の注意を払いながら、老人は不覚にも前屈みになって、地面に落ちた血の跡を目で追った。それがすぐに跡切れているのを見たとき、何か異様な気配を感じた老人は、素早く傍らの大木に身を寄せた。その瞬間、後頭部に烈しい一撃を受け、前のめりに踏鞴(たたら)を踏んだ。―「手負い熊」
耕平は、眼を閉じた。背には、羆の体が密着している。顔の横に、羆の頭がのしかかっている。今にも自分の頭蓋骨が羆の逞しく鋭い歯でかみくだかれるような恐怖におそわれた。―「耕平」
熊に襲われて孤立無援の窮地に立たされたとき、時幸は自分が持っていた自信が、音もなく吹きとび、崩れていくのを感じていた。時幸がその一瞬に見せられたのは、きょうまで暮らし、見てきた里でのマタギの世界とはあまりにちがうものであった。―「初マタギ」
寅蔵が家で一杯飲んでそろそろ寝ようと思っていると、奥さんが「なんだか家の周りを誰かが歩いているような気がする、泥棒じゃないだろうね」といって気味悪そうな顔をした。耳を澄ますと、確かに誰かが歩いているような音がする。しかも鼻息が荒い。―「復讐するクマ」
私はある夏ヤマベ釣りに、マタオチ川の奥の大沢へ出掛け一晩泊りで釣っていた。無我の境にひたり、銀鱗溌剌たる大きなヤマベを釣り上げて一人悦に入った。ある場所で大岩が突立っている。川のカーブを無意識に通り越えようとした時、私はグワンと不意に横顔をなぐられて、横飛びによろけながら川原に打倒された。―「羆対羆の死闘」
ガウッ、ガウッと短く吠えながら赤毛が鋭く前足を振るい、一頭の犬がはね飛ばされた。一瞬、犬たちの攻撃に乱れが生じ、その隙に赤毛は傍らの木に抱きついて懸命に登り始めた。その尻や後足に犬たちが喰らいつき、木の幹で踏ん張って下へ引っぱった。―「タキ」
「熊を殺すと雨が降る」という言い伝えが、現在でもマタギの間に生きている。“山の神の血洗い”と古老はいう。山の神が、清らかな山で血を汚したのを怒って、雨や雪を降らせて血を洗い流しているのだと説明されているが、一説では熊は天気が崩れる前に多量に餌を取る習性があり、このときに撃たれることが多いからともいわれる。―「熊を殺すと雨が降る」
家人たちはすぐに倒れている父親を発見して、腰をぬかさんばかりにおどろいた。すぐにいろいろ介抱した甲斐があって、ともかくやっと息をふきかえしはしたが、大変な重傷である。脇腹をかきむしりとられて、鮮血に染って虫の息。―「牧場荒しの大羆を倒す」
彼の場合、その行為は徴発であって掠奪ではなかった。自分の領土にある食物はすべて自分の物であった。だから彼は狐や狸のようにこそこそしなかったし、びくびくもしなかった。当然の権利を行うまでで、彼に言わせれば、どこから見ても正当な行為だった。―「羆風」
黒い目の奥に、怒りが青く光っている。その怒りの色は、こちらに向けられたものではない。思うように動かない自分の体への苛立ちだ。低い唸り声も受けた疵の痛みや、近づく者への威嚇の唸りではない。動かない体をなんとか動かそうと、自分自身を叱咤しているような唸りである。―「襲撃された牛舎」
“こんなことが起きるなんて……”現実感が乏しかった。痛みは強烈で、闘う気力すら湧かない。ぼくの血か、または熊の唾液かわからないが、顔が液体でぐちゃぐちゃに濡れていくのがわかった。―「まさかの出来事」
私は、クマにやられたなと思った。案の定そうであった。彼らは、福岡大学ワンダーフォーゲル部員であった。まだ上に三人がいるとのことである。危ない、三人が危ない! どうやらわれわれを襲ったクマと同じクマのようだ。現場、時間などから判断して…… ―「日高・カムイエクウチカウシ山のヒグマ襲撃事故」
まず私がその場に踏み込むと、アシが一面に踏み倒され、得体の知れないものがはずれに横たわっていました。それは見るも無残に変わり果てた人間で、土にまみれどす茶色化した肌の色は例えようのないほど不気味なものでした。―「北千島の人食いグマ事件と私」
大正十五年に、森下キヨを喰い殺した加害熊は「親仔熊」であった。この事件で人肉の味を覚えた仔熊が、その後成獣となり、同じ手口、すなわち農作業中の人間を襲うようになったとは考えられないだろうか。―「受け継がれる人喰い熊の「DNA」」
襲撃したのは、人慣れし、人間の食物に餌づいたクマだった。このクマは、人間に近づくと人間は追い払おうとするかもしれないが、比較的害のないそのいじめ行為を無視すれば、人間の食物にありつけるかもしれないということを学習していた。―「星野道夫の死」
山と溪谷社 怖い熊 傑作アンソロジー
山と溪谷社 山と溪谷 2026年6月号 ■特集「テーマで探す 北アルプス名ルート50」
