ガストン・レビュファ

ガストン・レビュファの一生

ガストン・レビュファ。あまたいるアルピニストのなかで、彼ほど広く名が知れ、ファンが多いアルピニストも稀です。それは、レビュファが残したアルプスやヒマラヤにおける登攀記録や、山岳ガイドとしての実績だけでなく、多くの文学作品や映画を創造し、山の素晴らしさ、登山の歓び、アルピニストの高潔さ、山岳ガイドとしての生き様を表現し、多くの者たちにそれを伝えたからでしょう。

レビュファは登山を表現する第一人者であり、私たちは、レビュファがいたからこそ、アルプスの山々を、アルピニストという人間たちを知ることができました。

海に生まれ、山に向かった人生

マルセイユの町並み

出典:PIXTA(マルセイユの町並み)

ガストン・レビュファが生まれたのは1921年のことです。

多くの名ガイドがシャモニー谷などの山岳地域から生まれましたが、レビュファが生まれ育ったのはフランスのマルセイユです。いまでは国内でパリに次いで人口が多い、湾岸都市です。レビュファははっきりと、「私が最初に知ったのは、水平のラインだった」と書いています。垂直の岩場ではなく水平線を望む海です。

ところでさっそく話は脱線しますが、マルセイユと神戸市は1961年に姉妹都市になりました。同じ港町という縁だと思われますが、すぐ近くの郊外に自然があることも共通しています。

また、神戸市は日本の近代登山発祥の地であり、そのような都市がレビュファの生まれ故郷と姉妹都市の関係にあるというのも、何かの縁を感じます。

岩登りを知り、アルプスへ憧れる

カランクの岩場

出典:PIXTA(カランクの岩場)

レビュファが岩登りを始めたのは、マルセイユからほど近いカランクという岩場です。国立公園であり、青い海と白い石灰岩の岩場が眩しいほどの場所です。いまでも多くのクライマーが訪れます。

その後レビュファは、自国の最高峰であるモンブランを眺めてみたいと、友人とふたりでシャモニーへ向かいます。ブリアンソンから徒歩で、夜はテントを張ったり、農家の納屋に泊めてもらいながら2週間もかかります。

いざ憧れのモンブランを前にし、さらにはメール・ド・グラス氷河を歩きます。ひょっとしたら、2週間もかけてたどり着いた土地だったから一層うれしかったのかもしれません。

アルプスの高峰のとりこに

ラ・メイジュの夏

出典:Wikimedia Commons/Gallois - Own work, CC BY-SA 3.0(夏のラ・メイジュ)

1938年17歳のとき、レビュファはバール・デ・ゼクラン(4102m)とラ・メイジュ(3953m)という高峰に登ります。これがきっかけとなり、一気にアルプスの高峰を登ることに傾倒します。

そして、モンブラン山群のプラン針峰やロック針峰に登り、クライマーとしての才覚を表していきます。

1941年には、フランス軍に関連した「青年山岳研修所」に配置され、シャモニーのモンタンヴェールで2ヶ月を過ごすことになります。このとき仰ぎ見たいグランドジョラス北壁に、強い憧れを持ちました。

若くして、山岳ガイドの道へ

シャモニー谷

出典:PIXTA(山岳ガイドの故郷、シャモニー谷)

レビュファは、早くに山岳ガイドという職業に目覚めました。1942年に、フランス山岳会が主催するガイド講習会に参加します。このときの講師はアルマン・シャルレという登山家でした。のちにシャルレというブランド名でピッケルやアイゼンを製造するようになる人物です。レビュファはこの講習会でトップの成績を修めます。山岳ガイドは23歳以上と定められていましたが、21歳のレビュファは実力が認められ、特別にガイド資格が与えられました。

特別措置が取られたのはこの時だけではありません。3年後にシャモニー・ガイド組合のメンバーに迎え入れられたときも同様です。近代登山発祥の地であり、山岳ガイドの故郷であるここでは、シャモニー谷に生まれ育ったガイドしか入れなかったのですから。

顧客の人生に寄与する歓び

レビュファは、山岳ガイドのことを、自己犠牲に基づいたものであり、顧客の憧れの頂上に導く仕事だと書いています。それは困難性や危険性もある仕事であり、山を職場とすることを誇り高く感じていたようです。また山岳ガイドたちは、自分の仕事を深く愛しているとも。

興味深いのは、「どの山に登るかという発意は、これまでの習慣通り、つねに客がとるもの」と書いていること。一般に山岳ガイドは顧客に比べて旅をしたい気持ちや企画を立てる精神は劣っているようであるというのです。コロンブスの卵のようにどちらが先かわからないけれど、顧客がオーダーする山頂へと導くのが仕事であると。

それでも、アルピニストとしてあり続ける

グランドジョラス北壁

出典:PIXTA(グランドジョラス北壁)

しかし、そのような一般的な山岳ガイド達と、レビュファは一線を画していた印象があります。自分自身の登山と山岳ガイドの仕事の両輪を駆動させていたから。いやそれだけでなく、後述する表現者としての活動もありました。三輪車だとしたら、やはり前輪はアルピニストなのだと思います。

国立スキー登山学校の講師を務めながらも、アルプスを登り続けます。時代的にも初登攀は少なくなっていましたが、なかには、レビュファが初登攀したルートもあります。とくに、若いころから憧れたグランドジョラス北壁第二登、ドリュやマッターホルン、アイガーの北壁は充溢したものだったと読み取れます。

星に嵐に、山のすべてを

アルプスと星空

出典:PIXTA(アルプスと星空)

また、レビュファは、あらゆる登山のスタイル、季節を楽しんでいました。こんなエピソードもあります。アルピニストのなかにはすべての山行をビバークなしでやったと自慢する人がいるが、それはなんと多くのことを犠牲にしているか、というのです。山のなかで夜を越すときに見る、空の深みや山全体が寝静まるような感覚に魅力を感じるのだと。同じように、山は晴れた日だけがよいのではない。嵐にも美しさがある。岩だけ氷雪だけではなく、いろんなルートを登りたいとしていました。

「山がたえず差し出してくれる数限りないよろこびをどれ一つとして拒絶してはならない」と。だから、彼の代表作は『星と嵐』というタイトルなのですね。

やがて1950年には、ネパールヒマラヤのアンナプルナ隊に加わります。人類初の8000m峰登頂となるフランスのチームです。レビュファは、7500mの第5キャンプまで登ります。

生涯でヒマラヤはこの時だけとなり、以後は一層、「表現」へと力を注いでいきます。

書くことで撮ることで、登攀を表現

『星と嵐』

撮影:編集部(『星と嵐』ガストン・レビュファ/ヤマケイ文庫)

レビュファより優れたアルピニスト、山岳ガイドはいるかもしれません。彼よりも歴史的記録を残した者もいます。ではレビュファのなにが素晴らしいのかというと、その表現にあったと思います。

レビュファは若いころから、登山を文章と映像に残すことに注力しました。その勢いはどんどん増していきます。

彼は、近藤等さんというフランス文学者と知り合い、山岳ガイドと顧客という関係で山を登り続けます。そのおかげで、私達はこんにち、『星と嵐』『山こそ我が世界』などのレビュファの作品を、日本語で読むことができるのです。

レビュファは、アルピニズムの真髄や山岳ガイドの心意気、山の美しさと登山の素晴らしさ、また先達であるクライマー達を敬う気持ち、自然界への憧れと畏敬の念を、描き続けます。

それは私たちに沢山のことを教えてくれました。彼がいなかったら、日常から隔絶された世界で行なわれる登攀というものを、一般の人たちが知る術はなかったかもしれません。

どの山を登るかではなく誰と登るか、それこそが大切であるということは、ザイルパートナー達との友情を描き、教えてくれました。

後世の人々の、かたわらで生き続ける

レビュファを偲ぶ石碑

出典:Wikimedia Commons/Fr.Latreille - Own work, CC BY-SA 3.0(レビュファを偲ぶ石碑)

レビュファは、9年間に及ぶガンとの闘いの末、1985年にこの世を去りました。けれど、レビュファの魂は多くの作品とともに、現代を生き続けます。

彼が残してくれたのは芸術作品だけではありません。『モンブラン山群特選100コース』という本があります。クライマーの間では、「レビュファ100選」と呼ばれています。モンブラン山群の100のルートについて解説しているもので、クライマーは1から順に100まで登ることを目標にしていました。

時が進み、ここにあるよりさらに困難で美しいルートが多数開拓されました。また、100のうち2番目に挙げた「ボソン氷河 氷のトレーニング」は、氷河の後退によりいまは氷河に降り立つことすら難しいです。しかしそれも時代の流れかもしれません。

100番目の最終目標であるモンブラン・フレネイ中央柱状岩稜、ここを初めてのモンブランで登った人もいました。山岳ガイドでありビッグマウンテンスキーヤーの佐々木大輔と一緒に登った、花谷泰広です。佐々木と同様山岳ガイドであり、現在は山小屋を運営しています。

初めてのモンブランが「レビュファ100選」の最終章というのは、いまでは珍しくないことなのかもしれません。それほど時代が進んだということなのでしょうが、それでもいまなお、クライマーたちはレビュファに憧れ、「レビュファ100選」を手に取ります。

レビュファ名言

sumiko kashiwa
柏 澄子 Sumiko Kashiwa

登山全般と山岳地域のあれこれをテーマにしたライターであり、登山ガイド。
中学1年生のとき、モーリス・エルゾーグの『処女峰アンナプルナ』を読み、空を見上げて雲を眺めては、「ヒマラヤはあれぐらい高いのかなあ」と妄想したのが、山登りに興味をもったはじまり。
Linktree: @mt.sumiko

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