【歴史を知るともっと楽しくなる#3】上高地の有名な”大正池”を作り出した「焼岳」ごつごつとした無骨な形の秘密とは?

2022/05/08 更新

山の生い立ちを知ればもっと山が好きになる!山の歩んできた歴史を知って思い出深い山旅にしませんか?そんな山旅の提案をする企画が「歴史を知るともっと楽しくなる!」。第3回は北アルプスの焼岳。現在進行形でどんどん姿が変わっていく活火山ならではの面白さや大正池の生い立ちなど、今回も盛り沢山でお届けいたします。

制作者

登山ガイド・山伏・応急手当普及員

田村茂樹

生き方に悩んでいた自分を救ってくれたお山に恩返ししたいと登山ガイドになる。街道歩きや里山登山からバリエーションルートや雪山登山まで幅広いフィールドを案内している。山の歴史や信仰や古道、地理・地形・地質の解説が得意。

田村茂樹のプロフィール

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何かのきっかけで人生の様々なエピソードを話すうちにお互いに親近感を抱いて距離が縮まった。そんな経験がないでしょうか。
実は山も同じ。山の生まれ育ちを知れば、山に対する思い入れも愛着も増し、その山の思い出はより一層鮮やかなものとして心に残ります。そんな山旅の提案をする企画が「歴史を知るともっと楽しくなる!」。

河童橋と焼岳

撮影:筆者(河童橋と焼岳)
上高地の中心的存在とも言える河童橋。高く屏風のようにそそり立つ穂高連峰の反対側を眺めると、梓川の流れの向こうに見えるどっしりと力強い山。それが焼岳です。

今ではあまり聞きませんが、「北アルプスの香炉」という表現も昔はされていたようです。なんとも優雅な表現ですね。今回はこの焼岳を取り上げます。

「焼岳」と一口に言っていますが・・・

「焼岳」というと、多くの人は今の焼岳のことしか思い浮かばないでしょうが、火山として捉え直してみると、実は周辺の山も含めて同じマグマだまりからの一連の火山活動です。

焼岳火山群
引用:及川輝樹 (四角で囲った山々は実は焼岳の仲間)
西穂高岳から安房峠へと続く稜線には、割谷山、アカンダナ山、白谷山、岩坪山などが点在しています。火山らしい地形が残っていないので火山だったというと信じられない山ばかりですが、今の焼岳に火山活動の中心が移る前に噴火した火山体の名残で、言ってみれば、今の焼岳のお兄さんお姉さんたちです。

無骨な焼岳の形の秘密

焼岳は付近の他の山と比べるとごつごつとした形で、独特の存在感を放っています。

霞沢岳からの焼岳
撮影:筆者(霞沢岳から)
その秘密は、山頂付近のこの熔岩です。

焼岳 中尾峠から遠望した山頂部
撮影:筆者(中尾峠から遠望した山頂部)
このような火山地形を熔岩ドームと言います。近くで見ると特徴がよく分かりますね。
焼岳 山頂付近の熔岩
撮影:筆者(山頂付近の熔岩)
非常に粘りけの強いマグマが出てきたため、流れることなく、その場で盛り上がりつつ固まってドーム状になったものです。
とはいえ、噴火に伴ってどんどん下から熔岩が出てくるので、いずれ崩れて火砕流が起きます。
これがよく観察されたのが1990年代の雲仙普賢岳の噴火でした。
雲仙普賢岳 1993年3月5日の熔岩ドーム
提供:雲仙岳災害記念館(1993年3月5日の熔岩ドーム)
火口から湧き出てきた熔岩が固まってどんどん盛り上がっていっているのがよく分かります。巨大化して安定性を失った熔岩ドームは安定を失って崩れ落ち、火砕流が発生しました。
雲仙普賢岳 1993年6月15日に熔岩ドームが崩落した
提供:雲仙岳災害記念館(1993年6月15日に熔岩ドームが崩落した)
それまでは、熔岩ドームと火砕流は別々の噴火で堆積したものと考えられていましたが、雲仙普賢岳の噴火をきっかけとして研究が進み、焼岳も熔岩ドームができてそれが崩れて火砕流が発生するという繰り返しでできたことがわかったのでした。
地球の営みにはまだまだこのように分からないことはたくさんありますが、逆に分かっていく楽しみもまだまだたくさん残されているということでもあります。

焼岳 峠沢の断面
撮影:筆者(峠沢の断面)
このような火砕流の痕跡が焼岳にも残っており、上高地から中尾峠に登っていく登山道からは、山頂部の熔岩ドームが崩壊して流れた火砕流堆積物の断面を見ることができます。

火口はいくつある?

焼岳は火山ですが、火口はいくつあるのでしょうか。山頂近くにはいくつかのへこみや出っ張りがあります。

焼岳 正賀池と隠居穴
撮影:筆者
どの登山口から登っても山頂で見ることのできるのはこの2つの火口で、左は正賀池、右は隠居穴と呼ばれています。
名前の由来はよく分かっていませんが、「隠居穴」とはなんとも不思議な名前ですね。

焼岳 醒ヶ池火口
撮影:筆者
残雪期に北峰東側のピークに登ってみると、醒ヶ池火口も見えます。

焼岳 焼岳の火口の分布
引用:及川輝樹 (焼岳の火口の分布)
山頂にあって丸い形をしている、普通の人がイメージしやすい火口はこれくらいですが、実は分かっているだけでもこれだけの火口があります。山頂からだいぶ離れたところからでも噴火していますし、細長い割れ目から噴火したこともあります。登っていても、まだ山腹だからと安心するのは禁物です。

登山道が火口を通っている??

さて、この地図を見ると、中尾峠から山頂に向かう登山道は「1962年火口」を通っているのが分かるでしょうか。

焼岳 1962年火口 この1962年の水蒸気噴火の一週間後に撮られた写真が残っています。このときは北側山腹に割れ目火口ができて、そこから噴火が起こりました。

撮影:筆者
似た角度で撮ってみたのがこの写真です。

中尾峠から登っていく場合には森林限界をすぐに抜けて、この割れ目噴火口跡の噴気を横目に見ながら登っていきます。

焼岳 登山者
撮影:筆者(右:割れ目噴火口から立ち上る噴気、左:火口付近を登る登山者)
西穂高岳など付近の山から推測すると森林限界の標高は2300m程度のはずですが、実際には2100m程度になっています。噴火の影響によって先の写真のように立木が枯れてしまったのです。

なんでここは森林限界がこんなに低いのか?山を登りながらそんなことに気づくと、いろんな自然の営みが関わっていることが見えてきます。

 

焼岳 噴火で家が崩落 この噴火では火山弾が旧焼岳小屋に落ちて従業員が負傷したり、泥流が流れたりしています。上高地からの登山道はそれまでは峠沢に付けられていて中尾峠に登っていましたが、使えなくなったために新中尾峠を通るように付け替えられました。

大正池を作った山



上高地 大正池
撮影:筆者
大正池に映る焼岳は上高地を代表する景観です。この大正池、実は焼岳の噴火によってできたことをご存じでしょうか。

その名の通り「大正」4年6月6日の噴火の際に流れ下った泥流によって堰き止められてできたので、大正池という名前がつきました。

焼岳 大正の頃の焼岳と大正池
提供:松本市立博物館(大正の頃の焼岳と大正池)
できて間もない頃の大正池と焼岳の写真です。

噴火当初の大正池はこのように白樺の立ち枯れの木が数多く残っており、朝や夕の日差しの中では凄絶な雰囲気に包まれることもあったようです。

焼岳 1925年の噴火
提供:松本市立博物館(1925年の噴火)
明治末期に始まった水蒸気噴火は昭和初期まで続き、時には激しく噴煙を上げることもあったようです。

地形図を見比べてみる

さて、上高地周辺の地形図が最初に発行されたのは大正2年。大正池を作った噴火は大正4年。

ということは、もしや、大正2年の地形図には大正池は描かれていない??ということで、確かめてみました。

焼岳 地形図
出典:国土地理院(大正2年発行仮製5万分の1地形図 焼岳図幅)
ひとまず全国の地形図を網羅するために応急的に作られた版ですが、たしかに大正池は出ていません。これは面白いですよね!

出典:国土地理院(大正6年発行5万分の1地形図 上高地図幅)
大正6年に正規の規格で初めて刊行された地形図には大正池が載っています。大正4年の噴火で新たに開いた割れ目火口と、そこから噴き出した泥流の下った跡も焼岳東斜面に表現されています。

焼岳?硫黄岳?

2枚の地形図にもう一点面白い違いがありますが、お気づきになりますでしょうか。

出典:国土地理院(大正2年発行仮製5万分の1地形図 焼岳図幅)
1枚目の地形図の左側を見てみると、「焼嶽」に加えて「硫黄嶽」と書かれています。実はこれは岐阜県側の名称で、今の焼岳小屋から山頂に向かってすぐの展望のよい小山が、岐阜県側でもともと呼ばれていた「焼岳」のなのです。ちなみに長野県側ではまとめて「焼岳」と呼ばれていました。「焼岳」が全国的な名称となっていった背景には、当時の水蒸気噴火による火山灰の被害が東側の長野県で大きく、長野県経由で情報が東京にもたらされていたからのようです。

車で入れるようになったのは大正池のおかげ?

島々谷の登山道
撮影:筆者(島々谷の登山道)
上高地へは昔は島々から徳本峠を越えて歩いて入っていました。上高地は、江戸時代には松本藩の御用林として林業が盛んでした。沢の音を聞きながら古人の足跡を辿るこの道は今でもクラシックルートとして人気があります(残念ながら2018年の梅雨の大雨で大崩落してしまい、復旧にまだまだ時間がかかりそうなので注意)

歩いてしか入れなかった上高地が車で入れるようになったのには、大正池が大きく関わっています。天然ダム湖ができたのに目をつけた電力会社が水力発電に利用しようとし、大正池を安定したダム湖にし、沢渡までの導水管を掘るために道が開かれました。

 

大正池を下流に行ってみると、取水口と可動式の堰堤があります。

大正池 下流
撮影:筆者(大正池の堰堤は大雨の時には解放できる可動式となっている)
大正池 取水口
撮影:筆者(取水口)
出口は沢渡の霞沢発電所で、ダム湖から発電所までの落差は日本一です。

ちなみに、上高地トンネルの勾配が一定でないのは、地下に通っている導水管を避けるように造られたためです。

埋まりゆく大正池

できたばかりは水深も深く立ち枯れの木がたくさんあった大正池も、上流から流れ込む土砂でどんどん埋まってきています。

大正の頃の焼岳と大正池
提供:松本市立博物館(大正の頃の焼岳と大正池)
大正池の立ち枯れの木も昔の写真と比べるとだいぶ少なくなりました。
焼岳と大正池
撮影:筆者
大正池が埋まっていくのに応じて、上流の川底もどんどん高くなってきています(河床上昇)。河童橋から大正池周辺、明神や横尾など旅館や山小屋の多い地域では、洪水の可能性も高まるため、大きな問題になっています。

増水時の河童橋付近の様子
撮影:筆者(増水時の河童橋付近の様子)
上流から運ばれてきた土砂で天然ダムがどんどん埋まっていって平地ができるというのは自然な変化なのですが、上高地の場合には池越しに見える穂高連峰や焼岳の景観は貴重な観光資源ですし、観光施設も守らなければならないのが悩みどころです。

大正池から見る梓川上流と穂高連峰
撮影:筆者(大正池から見る梓川上流と穂高連峰)
根本的な解決策を決めかねている現在では、東京電力はオフシーズンに浚渫をしてなんとか「池」の体裁を維持し、また上流では護岸や床固めや堰堤を建設して土砂の流出や浸蝕を抑えようとしています。しかし、一方で、こうした工事が上高地らしい自然が失われていく一因となっていることも確かです。
大正池の浚渫作業
撮影:筆者(大正池の浚渫作業)
梓川のかけられた資材運搬路
撮影:筆者(左下:梓川のかけられた資材運搬路、右上:橋が流されないように上流側では土砂を移動させて流れを直線化させている。)
 

こうした問題を解決しようと、松本市と関係省庁が連携して、「上高地 再生と安全プロジェクト」が令和9年まで行われます。詳細はリンク先をご覧ください。

自然の恵みをどのように持続的に享受するか、上高地の旅館などの施設や環境省や自治体だけでなく、上高地や山を愛する皆さんひとりひとりがよくよく考え、議論してこの先どうするかを決めて行きましょう。

生い立ちを知れば山登りがもっと面白くなる!

ウエストン顕彰碑付近から見た焼岳
撮影:筆者(ウエストン顕彰碑付近から)
焼岳と大正池に秘められた秘密、いかがでしたか。
ではまた次回をお楽しみに。

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