実は山も同じ。山の生まれ育ちを知れば、山に対する思い入れも愛着も増し、その山の思い出はより一層鮮やかなものとして心に残ります。そんな山旅の提案をする企画が「歴史を知るともっと楽しくなる!」。あなたもそんな山旅の扉を開いてみませんか。
第1回は、「南アルプスの女王」とも呼ばれる仙丈ヶ岳を取り上げます。
仙丈ヶ岳はいかにして「女王」となったのか

実はこの愛称、新しいものかと思いきや、すでに戦中の1940年の登山案内の本には見られて、すでに一般化していたようです。
しかし、そもそもどんな風に今のような女王らしい風格を備えるに至ったのでしょうか。魅力ある人に出会えばその人の生い立ちを聞いてみたくなります。
仙丈ヶ岳の生い立ちも紐解いてみましょう。
仙丈ヶ岳は何歳?

それを調べるには、岩石の中に含まれる化石(アンモナイトや三葉虫といった誰でも知っているものからプランクトンまでいろいろ)や、岩石の中に残っている微量の放射能の強さを分析します。
その結果、1億4000万年前から6600万年前くらいということ。これは恐竜がまだ地球上にいた白亜紀の頃のお話です。
びっくりしましたか?仙丈ヶ岳は主にその頃の砂岩や石灰岩でできています。
仙丈ヶ岳はどのように生まれた?
では、仙丈ヶ岳を作った砂岩や石灰岩は、どこでどのように生まれたのでしょう。
簡単に言ってしまうと、地球上の陸地や海底は地球表面を覆う薄い膜(といっても数十kmくらいの厚さ)に乗って運ばれている、と考えられています。
今の日本列島もそうですが、海のプレートが陸のプレートの下に沈み込むところでは、海のプレートに乗って運ばれてきた火山島・珊瑚礁・海の底に積もったさまざまなものと、陸地の川などから流れてきた土砂が混ざり合って固まっていきます。
これを「付加体」といいます。

仙丈ヶ岳はどのように高くなった?実は今も成長中!
さて、プレート同士がぶつかるとどうなるでしょうか。片方が少なくとも海のプレートであれば、海のプレートがもう片方のプレートの下に沈み込んでいきますが、両方とも陸のプレートだと逃げ場がありません。ぶつかって上や下に膨らんでいきます。
そのうち、上に膨らんで見えているところが実は山脈となっているのです。

年間3mmというとたいしたことないように感じますが、100年経てば30cmです。日本にいるのであまり実感がないかもしれませんが、人間の寿命のスケールでも標高の変化を感じられるのは実は凄いことで、世界有数の速さなのです。
それにしても、人間の感覚からしたらおばあちゃんなのに、まだまだ背が伸び続けているなんて、考えてみるととっても面白いことですよね。
氷河が削って今の形になった


その後の浸食で失われてしまった部分も多いですが、仙丈ヶ岳では一番発達した時には2合目付近まで氷河が伸びていたと考えられています。
ちなみに、険しい沢や谷の地形は、その後の水による浸食によるもので、V字谷と呼ばれています。
仙丈ヶ岳開拓の歴史を訪ねて
名前の由来は?

都道府県境(昔でいうと国境)の山ではそれぞれの国で呼び名が違うことがよくあります。この仙丈ヶ岳も同じで、この名前は山梨県側の「千丈嶽」に由来します。一丈は今の単位で言えば3m3cmですから、千丈といえば約3030m。国土地理院の地形図を見ると、仙丈ヶ岳の標高はなんと3033m。「千丈」というのは「とてつもなく高い」ということの比喩でしょうが、それにしても偶然というには面白すぎる一致です。
仙丈ヶ岳は山梨県側から見ると、前衛の甲斐駒ヶ岳や鳳凰三山だけでも大きく、その奥にある仙丈ヶ岳はそこまで馴染みが無かった山のようで、絵図や古地図にも見られず、甲斐国の地誌「甲斐国志」などの文章中に見られるのみです。

絵図にも出てくるようなより身近な存在だった長野県側の名称が取り上げられなかったのは、東京から近い山梨県側からスポーツ登山が始まっていったからのような気がします。
この人なくしては語れない 竹沢長衛翁


若い頃は熊猟を中心とする猟師として南アルプスの山麓を縦横無尽に歩き回り、一帯の山々に詳しくなっていきます。後に名案内人となったその基礎は、この若い頃の経験によって養われたものと言って良いでしょう。
そして、明治時代終盤より登山の歩荷としての仕事をするようになり、徐々に案内人としての役割を増やしていきます。鋸岳から赤石岳までの長期縦走の案内人頭を務めたり、北岳バットレスへの案内と同時に初登に名を残すなど、数々の業績を上げました。

仙丈ヶ岳五合目から馬の背に抜ける薮沢新道、長衛小屋から仙丈ヶ岳二合目までの巻き道、甲斐駒ヶ岳の双児山ルート、仙水峠を経ないで栗沢山に直登する栗沢山新道など、登山道を新たに整備して維持することで、より登りやすい環境も作りました。

顕彰碑の碑文には、
「竹沢長衛翁は南アルプス開拓の先覚である。その足跡は南アに遍く新登路の開発に山小屋の経営に登山界に盡すところ甚大であった。昭和三十三年三月没。ここにその生涯を記念して碑を建てる。」
と刻まれています。
忘れられた名ルートの数々

ところで、この仙丈ヶ岳にどれだけの「登山道」があるか、皆さんご存じでしょうか。自信を持って答えられる人はよほどの「仙丈通」と言えます。
山の道は、その山と人の歴史の一端を物語る重要な語り部。
南アルプス北部の登山史に大きな功績を残した竹沢長衛翁の功績に触れながら、南アルプス林道の陰にすっかり隠れてしまった数々の名ルート、そして山小屋をご紹介していきましょう。
1980年に南アルプス林道ができて以来、今では「登頂効率」を重視して、甲斐駒ヶ岳と合わせて北沢峠から往復する人がほとんどですが、それ以前は様々な登山道がよく歩かれていました。いずれも今でも歩ける道で、それぞれの味わいがあります。
1) 戸台河原~北沢峠



また、後半の苔むす森の歩きは人通りも少なく、癒やしの森を独り占めできます。
2) 重幸新道


3) 丹渓新道

最も忘れられているといってよい道ですが、実に静かな南アルプスらしい山登りを味わえる名ルート。


4) 地蔵尾根


ちなみに、登山口は一ノ瀬から少し上がった柏木という集落で、駐車スペースもあります。
「定番」と違う道を歩いてみませんか
登りたい山がたくさんある中では、せっかく日数があるならば少しでも多くの山に登りたい気持ちもよく分かります。ですが、ひとつの山に時間をかけるのも思い出深い山登りとなり、これも捨てがたいもの。昨今では林道やロープウェイが通じて、そこまでの登山道はなくなってしまった山も少なくないですが、戸台河原の道にしても地蔵尾根の道にしても、里から歩いていける登山道がここには今も残っており、日本の山の持っている本当の奥深さや大きさを味わわせてくれます。
日本の山にとって大変貴重な財産と言えるでしょう。少しでも多くの人が歩いてくれれば、それがそのまま登山道の維持に繋がります。みなさんも今年の夏にぜひ歩いてみませんか。
生い立ちを知れば山登りがもっと面白くなる!

「そうだったんだ!」
「へぇ!」
「行ってみようっ!」
そんな声が聞けたらとても嬉しいです。
そんな生い立ちをたどる旅、次回は八ヶ岳の天狗岳をお届けします。