【歴史を知るともっと楽しくなる#1】南アルプスの女王「仙丈ヶ岳」の生い立ち

2021/05/07 更新

山の生い立ちを知ればもっと山が好きになる!山の歩んできた歴史を知って思い出深い山旅にしませんか?そんな山旅の提案をする企画が「歴史を知るともっと楽しくなる!」。第1回は、「南アルプスの女王」と讃えられる仙丈ヶ岳のこれまでの生い立ち、仙丈ヶ岳への山登りを支えてきた人たちの物語を取り上げます。

アイキャッチ写真:筆者(鋸岳の鹿の窓から見た仙丈ヶ岳)
何かのきっかけで人生の様々なエピソードを話すうちにお互いに親近感を抱いて距離が縮まった。そんな経験がないでしょうか。
実は山も同じ。山の生まれ育ちを知れば、山に対する思い入れも愛着も増し、その山の思い出はより一層鮮やかなものとして心に残ります。そんな山旅の提案をする企画が「歴史を知るともっと楽しくなる!」。あなたもそんな山旅の扉を開いてみませんか。
第1回は、「南アルプスの女王」とも呼ばれる仙丈ヶ岳を取り上げます。

仙丈ヶ岳はいかにして「女王」となったのか

撮影:筆者(伊那谷から望む仙丈ヶ岳)
南アルプス北部に聳える百名山の仙丈ヶ岳。優美で堂々とした風格で、まさに「南アルプスの女王」と呼ぶに相応しい山ですね。

実はこの愛称、新しいものかと思いきや、すでに戦中の1940年の登山案内の本には見られて、すでに一般化していたようです。
しかし、そもそもどんな風に今のような女王らしい風格を備えるに至ったのでしょうか。魅力ある人に出会えばその人の生い立ちを聞いてみたくなります。
仙丈ヶ岳の生い立ちも紐解いてみましょう。

仙丈ヶ岳は何歳?

撮影:筆者(鋸岳の鹿の窓から見た仙丈ヶ岳)
突然ですが、仙丈ヶ岳は何歳くらいだと思いますか?
それを調べるには、岩石の中に含まれる化石(アンモナイトや三葉虫といった誰でも知っているものからプランクトンまでいろいろ)や、岩石の中に残っている微量の放射能の強さを分析します。

その結果、1億4000万年前から6600万年前くらいということ。これは恐竜がまだ地球上にいた白亜紀の頃のお話です。
びっくりしましたか?仙丈ヶ岳は主にその頃の砂岩や石灰岩でできています。

仙丈ヶ岳はどのように生まれた?

では、仙丈ヶ岳を作った砂岩や石灰岩は、どこでどのように生まれたのでしょう。

引用:斎藤他(2006)を基に作成
ちょっと難しい話になりますが、「プレートテクトニクス」という言葉をご存じでしょうか。
簡単に言ってしまうと、地球上の陸地や海底は地球表面を覆う薄い膜(といっても数十kmくらいの厚さ)に乗って運ばれている、と考えられています。

今の日本列島もそうですが、海のプレートが陸のプレートの下に沈み込むところでは、海のプレートに乗って運ばれてきた火山島・珊瑚礁・海の底に積もったさまざまなものと、陸地の川などから流れてきた土砂が混ざり合って固まっていきます。
これを「付加体」といいます。

撮影:筆者(左:戸台河原の石灰岩の岩壁、右:薮沢新道の砂岩の露頭)
主に仙丈ヶ岳を形作る”砂岩の部分”はこのときに陸地から流れ込んだ土砂、戸台河原の幕岩や白岩に代表されるような”石灰岩の部分”は珊瑚礁が岩石となったものなのです。

仙丈ヶ岳はどのように高くなった?実は今も成長中!

さて、プレート同士がぶつかるとどうなるでしょうか。
片方が少なくとも海のプレートであれば、海のプレートがもう片方のプレートの下に沈み込んでいきますが、両方とも陸のプレートだと逃げ場がありません。ぶつかって上や下に膨らんでいきます。
そのうち、上に膨らんで見えているところが実は山脈となっているのです。

引用:Taira et al. (1992)を基に作成
南アルプスの場合、南からフィリピン海プレートに乗って運ばれてきた巨摩山地、御坂山地、丹沢山地、伊豆半島の衝突によって、ここ約100万年の間に急速に隆起したと考えられていて、今でも少なくとも平均で年間3mmの速さで隆起していると計算されています。

年間3mmというとたいしたことないように感じますが、100年経てば30cmです。日本にいるのであまり実感がないかもしれませんが、人間の寿命のスケールでも標高の変化を感じられるのは実は凄いことで、世界有数の速さなのです。

それにしても、人間の感覚からしたらおばあちゃんなのに、まだまだ背が伸び続けているなんて、考えてみるととっても面白いことですよね。

氷河が削って今の形になった

撮影:筆者(馬の背から薮沢カールを望む)
仙丈ヶ岳の山頂近くをよく見ると、スプーンでアイスクリームをすくった後のような地形があるのが分かるでしょうか。このような地形は氷河によって作られたもので、圏谷(カール)といいます。

撮影:筆者(甲斐駒ヶ岳から望む仙丈ヶ岳。山頂左下に小仙丈カールが見える。)
今では日本の山には剱岳や鹿島槍ヶ岳などの深い谷を持つ山にしか氷河はありませんが、約11万5000年前から1万1700万年前の最終氷期には、日本の多くの山で氷河が発達したことが分かっています。
その後の浸食で失われてしまった部分も多いですが、仙丈ヶ岳では一番発達した時には2合目付近まで氷河が伸びていたと考えられています。

ちなみに、険しい沢や谷の地形は、その後の水による浸食によるもので、V字谷と呼ばれています。

仙丈ヶ岳開拓の歴史を訪ねて

名前の由来は?



出典:甲斐国志十五/山梨県立図書館所蔵(白根三山に関する記述の一部として「千丈嶽」の記述が見られる)
ところで、仙丈ヶ岳という名前はどういう由来なのでしょう?

都道府県境(昔でいうと国境)の山ではそれぞれの国で呼び名が違うことがよくあります。この仙丈ヶ岳も同じで、この名前は山梨県側の「千丈嶽」に由来します。一丈は今の単位で言えば3m3cmですから、千丈といえば約3030m。国土地理院の地形図を見ると、仙丈ヶ岳の標高はなんと3033m。「千丈」というのは「とてつもなく高い」ということの比喩でしょうが、それにしても偶然というには面白すぎる一致です。

仙丈ヶ岳は山梨県側から見ると、前衛の甲斐駒ヶ岳や鳳凰三山だけでも大きく、その奥にある仙丈ヶ岳はそこまで馴染みが無かった山のようで、絵図や古地図にも見られず、甲斐国の地誌「甲斐国志」などの文章中に見られるのみです。

出典:1815年の長野県側の古地図の一部に加筆(高遠藩石川重左衛門作図。「前嶽」が仙丈ヶ岳、「白崩岳」は甲斐駒ヶ岳)
一方の長野県側にとっては身近な山だったようです。こちらでは「前岳」と呼ばれていました。甲斐駒ヶ岳(長野県側からは東駒ヶ岳)の前衛峰ということでしょうか。
絵図にも出てくるようなより身近な存在だった長野県側の名称が取り上げられなかったのは、東京から近い山梨県側からスポーツ登山が始まっていったからのような気がします。

この人なくしては語れない 竹沢長衛翁

撮影:筆者
仙丈ヶ岳をはじめとする北沢峠周辺の山々を語る上でこの人の存在を忘れるわけにはいきません。快適に山登りを楽しめる今の登山道や山小屋の環境の基礎を作ったのが竹沢長衛翁です

生前の竹澤長衛氏 今でも長野県側から北沢峠の玄関口として賑わう戸台。竹沢氏はこのあたりで生まれました。
若い頃は熊猟を中心とする猟師として南アルプスの山麓を縦横無尽に歩き回り、一帯の山々に詳しくなっていきます。後に名案内人となったその基礎は、この若い頃の経験によって養われたものと言って良いでしょう。

そして、明治時代終盤より登山の歩荷としての仕事をするようになり、徐々に案内人としての役割を増やしていきます。鋸岳から赤石岳までの長期縦走の案内人頭を務めたり、北岳バットレスへの案内と同時に初登に名を残すなど、数々の業績を上げました。
撮影:三上浩文(長衛小屋に飾られている竹沢長衛翁の写真)
1930年には北沢長衛小屋(現長衛小屋)を建設し、増加する登山客の受け入れや啓蒙、遭難救助、高山植物保護などの拠点としました。
仙丈ヶ岳五合目から馬の背に抜ける薮沢新道、長衛小屋から仙丈ヶ岳二合目までの巻き道、甲斐駒ヶ岳の双児山ルート、仙水峠を経ないで栗沢山に直登する栗沢山新道など、登山道を新たに整備して維持することで、より登りやすい環境も作りました。

撮影:小淵幸輝(長衛祭)
その功績を讃えて、顕彰碑の前では毎年「長衛祭」が開かれています。
顕彰碑の碑文には、

「竹沢長衛翁は南アルプス開拓の先覚である。その足跡は南アに遍く新登路の開発に山小屋の経営に登山界に盡すところ甚大であった。昭和三十三年三月没。ここにその生涯を記念して碑を建てる。」

と刻まれています。

忘れられた名ルートの数々


撮影:筆者(昔の登山案内や登山地図。今では廃れてしまったルートがメインルートになっていて興味深い。)
ところで、この仙丈ヶ岳にどれだけの「登山道」があるか、皆さんご存じでしょうか。自信を持って答えられる人はよほどの「仙丈通」と言えます。

山の道は、その山と人の歴史の一端を物語る重要な語り部。
南アルプス北部の登山史に大きな功績を残した竹沢長衛翁の功績に触れながら、南アルプス林道の陰にすっかり隠れてしまった数々の名ルート、そして山小屋をご紹介していきましょう。
撮影:筆者(戸台に今も残る山小屋。林道ができる前は登山口の小屋として賑わったことだろう。)
1980年に南アルプス林道ができて以来、今では「登頂効率」を重視して、甲斐駒ヶ岳と合わせて北沢峠から往復する人がほとんどですが、それ以前は様々な登山道がよく歩かれていました。いずれも今でも歩ける道で、それぞれの味わいがあります。

1) 戸台河原~北沢峠
撮影:筆者(冬の戸台河原。甲斐駒ヶ岳に向かって足を進める。)
南アルプス林道の開通前までは、北沢峠までは戸台川の河原を歩いて行き、八丁坂を登っていました。冬に仙丈ヶ岳や甲斐駒ヶ岳に北沢峠から登ったことのある人には馴染みあるルートでしょう。

撮影:筆者(夏の戸台河原)
撮影:筆者(夏の戸台河原の登山道)
そんな冬ならではのルートと思われがちですが、実は夏もおすすめです。最初の河原歩きはじりじりと日に照らされるときもありますが、流れに足を浸して休むのも乙。
また、後半の苔むす森の歩きは人通りも少なく、癒やしの森を独り占めできます。

2) 重幸新道
撮影:筆者(大平山荘)
八丁坂を登っていくと、北沢峠までもう一息というところに大平山荘があります。これは長衛氏の子に当たる重幸氏が建てた小屋です。今もご親族が経営されており、北沢峠の2軒の小屋と違い、昔懐かしい山小屋の雰囲気を味わえます。

撮影:筆者
撮影:筆者(甲斐駒ヶ岳と鋸岳を背に登っていく)
ここから薮沢沿いに馬の背へと登る重幸新道は重幸氏が整備した道で、沢音を聞きながら登っていくのは夏の盛りには心地よいものです。仙丈ヶ岳に登る山を絞り、この重幸新道を利用するのもよいでしょう。

3) 丹渓新道
撮影:筆者(丹渓山荘)
戸台からの登山道の途中には、今では営業していない丹渓山荘が今も残っていて、南アルプス林道ができる前の往時の雰囲気を今に伝えています。ここから馬の背ヒュッテに直接上がる丹渓新道は、丹渓山荘と馬の背ヒュッテの主であった上島四朗氏が整備した道です。
最も忘れられているといってよい道ですが、実に静かな南アルプスらしい山登りを味わえる名ルート。

撮影:筆者
撮影:筆者
ちなみに、戸台川の支流の尾勝谷を詰めて馬の背に上がる道が昔はあり、古くは高遠藩の山中検分(藩有林の盗伐がないか、隣接藩との境界に異常がないかを見回る仕事)でも歩かれていたようですが、戦中くらいの時期には廃道になっていたようです。

4) 地蔵尾根
撮影:小淵幸輝
撮影:筆者(遠方に向かって伸びる長大な尾根が地蔵尾根。登り甲斐があるルート。)
地元の人以外には昔からあまり歩かれていなかったようですが、南アルプスらしいといえば、地蔵尾根も外せません。途中の松峰小屋(避難小屋)は管理が行き届いていてとても居心地が良いですし、水場も近くにあります。筆者は冬の時期にしか歩いたことはないのですが、夏は苔むしたシラビソ林を緩やかに時間をかけて登っていける道ということです。
ちなみに、登山口は一ノ瀬から少し上がった柏木という集落で、駐車スペースもあります。

「定番」と違う道を歩いてみませんか

登りたい山がたくさんある中では、せっかく日数があるならば少しでも多くの山に登りたい気持ちもよく分かります。ですが、ひとつの山に時間をかけるのも思い出深い山登りとなり、これも捨てがたいもの。

昨今では林道やロープウェイが通じて、そこまでの登山道はなくなってしまった山も少なくないですが、戸台河原の道にしても地蔵尾根の道にしても、里から歩いていける登山道がここには今も残っており、日本の山の持っている本当の奥深さや大きさを味わわせてくれます。

日本の山にとって大変貴重な財産と言えるでしょう。少しでも多くの人が歩いてくれれば、それがそのまま登山道の維持に繋がります。みなさんも今年の夏にぜひ歩いてみませんか。

生い立ちを知れば山登りがもっと面白くなる!

撮影:筆者(南アルプス林道より望む仙丈ヶ岳)
仙丈ヶ岳の生い立ち、いかがでしたか。
「そうだったんだ!」
「へぇ!」
「行ってみようっ!」
そんな声が聞けたらとても嬉しいです。
そんな生い立ちをたどる旅、次回は八ヶ岳の天狗岳をお届けします。

この記事を読んでいる人にはこちらもおすすめ

\ この記事の感想を教えてください /
GOOD! BAD

関連する記事

関連する山行記録 byヤマレコ

この記事が気に入ったら
「いいね!」をしよう
田村茂樹

登山ガイド/山伏。生き方に悩んでいた自分を救ってくれたお山に恩返ししたいと登山ガイドになる。日本の登山のルーツである信仰登山を再び日本によみがえらせることを夢見ている。大学で地学の研究をしていたため、地質や地形の解説も得意。https://www.tam-mountainguide.com/

登山専用コミュニティサイト「ヤマレコ」

アウトドアのすべてを、ひとつのアプリで。

150以上のアウトドアメディアの記事や動画、3万枚以上のみんなの写真も見られる!
アウトドアの「知りたい!」「行きたい!」がきっと見つかる!
お気に入りの記事や写真を集めて、スキマ時間に素早くチェック!