真っ暗な中をロープとヘッドライトの光を頼りに氷の壁を登っていく。標高6500m、極端に薄くなった空気と見上げても先が見えない垂直の壁が肺を握りしめるように押しつぶし、全く息が出来なくなる。
5歩進んで、立ち止まる。5回呼吸をして、次は7歩進もうとするけど、やっぱり5歩しか足が上がらない。足は鉛のように重く、アイゼンを壁に蹴り込む力もほとんど残っていない。咳き込むたびに折れた肋骨が響くように痛む。氷点下25度にまで下がった気温は体を凍らせ、ついには動いているよりも止まっている時間の方が長くなっていた。
標高6500mでこの垂直の氷壁を登っていく。写真は下りに撮ったもの 撮影:上田優紀
これが高所登山の世界。足をあげることはもちろん、一枚の写真を撮ることさえ困難な世界。どうして僕はこんなところで、そしていったい何をしているんだろう。足を止めるとそんな事ばかり考えてしまう。
「そこに山があるからさ。」
ジョージ・マロニーの言葉がふと頭をよぎる。彼の真意は分からない。けど、生きとし生ける全ての生物が決して生存出来ない世界で人間という小さな生命がこれでもかと、そのか弱い灯火を燃やす行為に魅力を感じていたのではないか、そして、それこそが「生きる」という行為そのものではないか、アマ・ダブラムの氷壁でかつての英雄に想いを寄せる。
生きる、僕は生きている。今まで経験したこともない過酷な世界に身も心もボロボロになりながら、そんな当たり前の事を強く実感し、一歩、また一歩と足を進めていった。
日が昇り、ヒマラヤに朝が広がっていく 撮影:上田優紀
どれほど時間が過ぎただろう。氷の絶壁にしがみついたまま、振り返ると真っ暗だった世界が少しずつ光を帯び始めていた。日が昇り、ゆっくりと世界に色を付けていく。
暗い夜が終わり、ヒマラヤに朝がやって来た。太陽はこんなにも暖かかったのか。光が凍った体を温め、少しずつ心を溶かしてくれる。半分意識もないままさらに歩き続け、垂直だった壁が次第に緩やかになってきた。気が付けば遥か彼方に思えたその頂はもう目の前にまで迫っている。
頂上からはヒマラヤの山々が一望出来る 撮影:上田優紀
10月28日、午前7時45分、僕はアマ・ダブラムの頂に立った。最後は這うように歩き、倒れこむように辿り着いた。頂上からはヒマラヤ山脈がどこまでも広がっており、数えきれないほどの美しい山々が凛とたたずんでいる。雲ひとつない快晴。標高7000m近い場所とは思えないほど穏やかな風が吹いていた。
アマ・ダブラムに登ったところで何か貰えるわけではない。前人未到の記録を達成したわけでもないし、未踏峰を制覇したわけでもない。
けど、自分では決して足を踏み入れることなど出来ないと思っていた未知の世界を自らの足で歩き、希薄な空気を吸い、全身を使ってその世界を体感できたこと、そして、何よりもこの登頂で自分の可能性を広げられたことは僕にとって大きな意味を持つのは間違いなかった。
僕はもっと遠くに、まだまだ見たことのない世界に行ける。そんな明るい希望に心が満たされていく。
アマ・ダブラム頂上から臨むエベレスト 撮影:上田優紀
目の前には世界最高峰エベレストが雪煙を上げながらそびえ立っている。いつかはその頂へ。もう何も残っていないはずの体の奥底から熱いものがこみ上げていることに気が付いた。カメラを片手に未知の世界を巡る僕の旅はこれからも続いていく。
【個展開催のお知らせ】
この紀行文を書いているネイチャーフォトグラファー・上田優紀さんの個展が開催されます。
キヤノンギャラリー銀座: 12月13日〜19日(15日はギャラリートークも予定)
キヤノンギャラリー名古屋: 1月17日〜23日
キヤノンギャラリー大阪: 2月14日〜20日
上田さんが感じるままに撮影したアマ・ダブラムの写真をぜひ身近に感じてみてください!