不撓不屈の岳人を描いた『孤高の人』
人生のすべてを山に捧げた単独登山家、加藤文太郎。『孤高の人』は、加藤文太郎をモデルに小説家・新田次郎が書き下ろした山岳小説です。厳冬期の山々をたった一人で走破し、青春時代から生涯を終えるまでの文太郎の生き様を題材としています。
ちなみに漫画版『孤高の人』は、この小説を原案とした作品。登山経験者であれば誰もが共感することでしょう。
不死身の男・加藤文太郎
単独行にこだわった文太郎の登山スタイルは、飾り気のない、とても地味なものでした。生真面目で我慢強い性格から、山登り以外は特に趣味もなく、仕事と勉強に明け暮れる日々を送っていたようです。数々の百名山を地下足袋で渡り歩いたスタイルは、文太郎の特徴といえます。
文太郎の単独行は、ガイド登山が主流だった当時としては画期的なものでした。過酷な環境を追い求める文太郎は、厳冬期の北アルプスを横断し、氷ノ山では凍死しかけます。冬山で死にかけては必ず生還する文太郎を周囲はいつしか「不死身の男」と呼ぶようになりました。
日本登山界のパイオニアである文太郎は、後の登山家に大きな影響を与えたとして、国宝級の人物とされています。
なぜ1人だったのか
単独行を行っていた理由として、加藤文太郎は次の様に述べています。
前穂の北尾根と槍の北鎌尾根なので、一人では少々不安だ。そうかといって山にはなんらの興味ももっていない案内を連れて行くことは、遭難した場合のことを考えると気の弱い私にはちょっとできない。
一層臆病で、利己的に生れた。彼の臆病な心は先輩や案内に迷惑をかけることを恐れ、彼の利己心は足手まといの後輩を喜ばず、ついに心のおもむくがまま独りの山旅へと進んで行ったのではなかろうか。
加藤文太郎が見た山々の景色
身近な生活の一部であった高取山
高取山は兵庫県の神戸市内に位置する、文太郎がメイントレーニングに使っていたとされる山。文太郎は、最後の槍ヶ岳山行の前にも高取山に登っていました。
高取山の北東には六甲山がそびえ立っていて、1日で六甲全山を回る「六甲全山縦走」は、文太郎が考案したトレーニングといわれています。
夏の白馬岳~白馬鑓温泉
白馬岳は、北アルプスで槍ヶ岳に並び、登山者に愛される山。当時、夏山登山にのめり込んでいた文太郎は、蓮華温泉から白馬岳に登り、鎗温泉へと下ったのですが、夜に白馬小屋で寝ていると、急に戸がガタガタと鳴り出したそうです。
重く大きい足音に、熊の気配を感じた文太郎は冷や汗をかき、布団にくるまったとのこと。あとで小屋の人に、夏は熊が出ることもあると聞いた文太郎は、小日向山を超えるまで、大声で歌って熊避けしたという話です。
中国地方最高峰の伯耆大山
「標高は高くないが、眺望が雄大で驚いた」と言わしめた中国地方最高峰の山、大山。四季によって変化する山景色が、多くの登山者を魅了しています。
文太郎も大山に魅了された一人で、氷ノ山や扇ノ山に登ったときにも、大山の展望について書き記しています。「今回は大山が見えなくて残念だ」と文太郎に言わしめた山です。
「羨望日本一」の木曽駒ヶ岳
「北アルプスと南アルプスを前後に見る眺望は日本一」と文太郎が言うのは中央アルプスの木曽駒ヶ岳。山頂周辺はハイマツ帯と砂の花崗岩による、自然が織りなす鮮やかな緑と白のグラデーションが広がっています。
文太郎は木曽駒ケ岳から南駒ケ岳までを縦走し、合計10日間も山で過ごしたにもかかわらず、縦走が終わる頃「山と離れるのは寂しい」と一言こぼしたそうです。
穂高に登るは天に登るより難し
これは、矢澤米三郎・河野齢蔵共著の岩波書店『日本アルプス登山案内』にあった言葉。3000m級の山々が並ぶ穂高連峰は、多彩な登攀ルートと別世界のようなパノラマが魅力です。
燕岳や槍ヶ岳を縦走して穂高に辿り着いた文太郎は、「穂高は実にアルプスの王」という言葉を残すほど、穂高の地を高く評価しました。現在でも多くの登山者が利用する、新穂高温泉からの白出沢ルートはこの頃に誕生したものです。
独り占めした気分になった仙丈ヶ岳
なだらかな山容が女性的と称される仙丈ヶ岳。頂上からは間近に甲斐駒ケ岳、東に富士山が見えます。
文太郎にとって仙丈ヶ岳は特別な山だったようです。他の山では記念品が買えたなか、何もなかった仙丈ケ岳。唯一、仙丈ヶ岳の三角点等級を知っていると自負していた文太郎は、他の登山者が知らない仙丈ヶ岳の魅力を自分は知っていると感じていたようです。それが文太郎にとっての登山の証明でもありました。
冬の山の素晴らしさを実感した山行・八ヶ岳
フォッサマグナの中心にある八ヶ岳は、連なる山々の形が八つの峰に見えることが名前の由来とされる山です。
文太郎は冬の氷ノ山の後、八ヶ岳に挑戦しました。本格的な冬登山は初で、元旦から正月という時期も重なり、辛く心細い思いをしたようです。吹雪で小屋に足止めをくらったことも追い打ちをかけました。
ですが、硫黄岳の稜線上で見たモルゲン・ロート、硫黄岳山頂の冬の絶景に文太郎は心を奪われます。そこから文太郎のメイン登山は厳冬期へと移っていくのです。
後に語り継がれる「厳冬期北アルプス横断」
文太郎が厳冬期北アルプス横断をした年は、小雪でした。上ノ岳と三俣蓮華岳までは途中スキーで登り、三俣蓮華岳の三角標石は確認できましたが、小屋は雪で埋まっていたとされます。
鷲羽岳の登りは不良で、野口五郎岳を越えた尾根では、一時、雪穴をつくって避難。三ツ岳から烏帽子岳への道も苦労したようで、朝に天候を読み違えた自分を反省しています。
この頃から文太郎はメディアで報じられ、人間国宝のような扱いとなっていきました。
危うく遭難しかけた氷ノ山
標高1,510mの氷ノ山。大山に次ぐ近畿地方が誇る山は、「母なる森」と呼ばれる豊かなブナ林が魅力です。
文太郎は、どんな山からも生還し続けましたが、氷ノ山で危うく遭難しかけます。湿った雪と風で、手袋も衣類も濡れ、文太郎の体温は低下。強烈な眠気に襲われました。
意識を失いかけた文太郎でしたが、そこに婚約者花子の幻覚が現れます。花子が衰弱した文太郎を導き、無事に下山することができたそうです。
国宝的山の猛者が息絶えた北鎌尾根
「孤高の人」と呼ばれる加藤文太郎ですが、北鎌尾根には友とパーティを組み挑みました。猛吹雪の登山という悪条件から、寒さと飢えで友は命を失い、それを見届けた文太郎も槍ヶ岳山中で息を引き取ります。国宝級の猛者が長い眠りについた瞬間です。文太郎が結婚してからちょうど1年後のことでした。
山の魅力に取り憑かれた男!孤高の天才・加藤文太郎
積雪期の登山経験者であれば、冬山の厳しさがよくわかることでしょう。冬山は吹雪による視界の悪さに加えて、寒さが体温を奪います。夏山よりも道が不明瞭で、ロストすることも珍しくありません。
単独行にすべてを込めた孤高の人・加藤文太郎は、現代の登山家にも影響を与える、まさに至宝のアルピニスといえます。